pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

猫三昧2


前の拙文に頂いたコメント
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シュバイッアはこう言ったそうですね。
「人生の惨めさから逃れる方法は二つある。音楽と猫だ」と。
彼はバッハの研究でも有名とか。
巴琴さんも猫とバッハがお好き。

そのシバイッツアは、蚊の命も尊重したとか。
こうなるとややこしいです。蚊に血を吸われてニコニコ笑う人はいない。
人にとって都合の悪い命がある。
過剰な猫の出現を人間が管理しなければならない。
こうなると神の領域を人が犯すことになるのでしょうか?

全ての命はいわば人間のためにある。これ自体が、ことによって
原罪なのかも知れません。命の矛盾。
他の命も、さらなる他の命を犠牲にして生きていく。
迷妄極まりないことを書いてる様ですが、
ノラ猫に関するお話の結論を自分で出せるわけではありません。
本当に困ったことです。ただ一つ言えるのは、幸福を味わいたいのなら、
責任を持たざるを得ないという事でしょうね。

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まず、真摯に問題の本質を衝いたコメントに敬服致します。

シュバイツァーは確かにバッハが好きで研究もしていたのは知ってますが、猫好きでしたか。蚊も殺さぬところは私如き凡人とは大違いで、私は蚊も蝿も殺します。


「虫も殺さぬ顔」という表現がありますが、これは内面夜叉を皮肉る事が多く使われていますから、シュバイツァーも内面夜叉か!とはならない。

 

実際に殺生戒を厳しく守る僧侶寺院もあるようです。


畢竟、猫問題も行き着くところは、この殺生にあります。


「人にとって都合の悪い命がある」
そう、都合が悪い。人間は自分たちの「都合」で生物を駆除してきました。


「過剰な猫の出現を人間が管理しなければならない」


そうです。
そして、「過剰な猫の管理」の結果、日本ではつい数年前までは犬猫30万匹くらいを毎年殺戮していました。一度ネットで殺戮された猫の亡骸をリヤカーに山のように積んでいた写真を見たことがあります。

さすがに行政もマズイと理解し、殺処分ゼロを目指す自治体も増えてきました。それは例えば小池知事のように票目当てなのですが、票の力ですね。殺すなという人たちが増えて声を上げて来たからと思います。


それはアウシュビッツに重なります。
人間をアウシュビッツに送れば歴史的大罪となりますが、ご存知のように犬猫は日本では(モノ)扱いなのです。

一方では、犬猫を家族として観る価値観があります。


モノ扱いと家族扱いの中間にノラが居ます。
もちろんアウシュビッツ送りはノラだけです。
ノラは現代では(昔もそうだったかも知れません)とにかく「迷惑」な存在と見られる事が多くなりました。人間の行為としてノラになったのですが。

 

前に書いたように私の文章は「迷惑」がキーワードです。
人々の許容範囲がやたら狭くなり(狭く誘導し)ギスギスとした状況がどんどん酷くなっています。気に入らない、嫌いが優先されています。その結果の一つが、この猫問題だと私は認識しています。


さて、そのノラ猫ノラ犬の問題。


さっきも庭先でツツジに隠れて子猫が鳴いています。

私が玄関を出るとモン太郎が近寄って餌をねだります。もう、モン太郎が子猫に食べさせたいのだと分かっていますが、一応上げます。案の定、モン太郎はほんの少し食べてすぐそそくさと離れて行きます。私も一緒にその場を離れると子猫が餌入れに駆け寄って一生懸命に食べています。

ハチも邪魔をせずに離れて見ています。

 

みんなが迷惑だから餌をやらぬようにすれば、間違いなく彼らは餓死するでしょう。国中にノラは居なくなる(餓死)。

 

ノラの居なくなった国。

それは望むべき国でしょうか。

 

責任をもって去勢させるべしというお考えもお聞きしました。
我が家の猫4匹(うち一匹は亡くなりました)全員、保護猫です。2匹はフクシマで保護され、他2匹は飼い主さんの死去や都合で保護された猫です。

4匹全員「譲渡」前に去勢手術されて来ました。確かに増え方が早いので、半分はその手術の必要性を理解しています。

 

しかし、優生思想で人間に同じ手術をしたのと似ていませんか。手術した保護方も、それを是認して譲り受けた私も、それは悲しい事です。
「迷惑」によって、去勢手術された人間や犬猫。私は同列に見るのです。

 

優生保護思想というナチスの思想を日本ではこの前まで改正せずにいたのですから(つくづく恐ろしい国ですね)、ましてや(モノ)でしかない犬猫などへの配慮など無かったのは当たり前です。

 

餌を与えるなら責任を、というご意見はよく分かります。
その責任とは何か。
可愛がる個人の責任はもちろんあります。

 

 

「ぼろぼろな駝鳥」 

           高村光太郎

 

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。

動物園の四坪半のぬかるみの中では、

脚が大股過ぎるぢゃないか。

顎があんまり長過ぎるぢゃないか。

雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。

腹がへるから堅パンも食ふだらうが、

駝鳥の眼は遠くばかりみてゐるぢゃないか。

身も世もない様に燃えてゐるぢゃないか。

瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢゃないか。

あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか。

これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。

人間よ、

もう止せ、こんな事は。

 

 

さすが高村光太郎

ただ、この詩を引用した訳には別の理由もありますがそれは別の機会に。

 

 写真、今日も来た子猫ちゃん
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