昨日はサントリーホールで久しぶりにクラシックを聴きに行った。長男が社長からチケットを貰ったから来いというのであるが、母の日?おい、貰ったチケットで母の日か?まぁ良いか。コンサートに罪はない。
「1969年、文化放送とフジテレビが、自社で運営していた日本フィルハーモニー交響楽団の解散を通告した。その際に楽員の3分の2は日本フィルに残り日フィル争議を起こしたが、退団した楽員と小澤征爾・山本直純らは新たに自主運営のオーケストラを1972年に設立した。これが新日本フィルハーモニー交響楽団である」 ウィキペディアより。
文化放送とフジ、この連中が楽団を運営していたとは噴飯者であるが、その分裂直後の新日本フィルの演奏会が福島市で行われた。その頃私は福島の高校に勤務していたので聴きに行った。ブラームスの交響曲1番だった。新生のオーケストラの息吹は迫力があった。
もう40年も前の話である。6畳一間に流し付のオンボロアパートの2階で鍵をかける気も起きない暮らしだった。定時制の生徒や予備校生、同僚やらみな出入り勝手の部屋。窓から首をだして別棟に住んでるお姐さんとよく挨拶を交わしていた。
この年増のお姐さん、肩脱ぎで化粧していたり夏など下着だけで居たり、なかなか妖艶であったが、おおらかであった。こちらも気にせず似たようなものだった。朝から夜中まで私が居るときは生徒らが来てたので、結構五月蠅かったはずだが、苦情は皆無だった。おおらかなのは何よりである。
「巴琴さん!電話来てるわよ!」なんて窓から大声で教えてくれたりした。別棟の玄関に電話機があった。主人夫婦が取り次いでくれるのだった。。
そんな電話は大概学校の教頭からの呼び出しであった。
「巴琴君、勤務時間過ぎてんだけどね」
当時は定時制は午後4時半からの勤務でよかった。今はバカ面して1時開始である。オメデタイ。ナンマンダブ。
この教頭、チワワのような顔でちんちくりん。怒っていたらしいが私は気づかない。職員室の自分の席に座ってると先輩が、「おい、教頭が怒ってるぞ、謝って」と笑いながら耳打ちしてくれて初めて気づく有様であった。
謝りに行くと背の低い教頭は胸をそびやかして「うむ!」と頷いたものだった。
まことにおおらかな時代であった。
おおらかというのも程度がある。
僻地校勤務で夜這いされた女子の新任の教員がいたと聞いた事もある。
夜中、彼女の2階の部屋に梯子をかけて登ってきたのだとか。彼女の絶叫で賊は転げ落ちて逃げたが、彼女はすぐ退職届を出したらしい。
2階の部屋で生徒らとこんな話でゲラゲラ笑いこけていた。
また脱線した。
40年の風雪に耐えた新日本フィルの演奏は素晴らしかった。
久しぶりのせいもあるが、音を以前より感じやすくなったからか、それぞれの音色の繊細を極めた美しさに聴き惚れた90分だった。ドビュッシーの描写がよく分かった。
「夜想曲という概念が印象や戯れといったかたちで呼び覚まし得る全てが重要だ」とドビュッシーが述べたらしいが、雲や風、大気の揺らぎが心地よく染み渡る。
「聖セバスティアンの殉教」交響的断章は初めて聞く。絶妙のハーモニー。「聖人は男女から愛され、間に立つ者として象徴されている。三島由紀夫は「霊験劇」の訳語をとった……」
つまり、現代的な社会テーマである同性愛を含む。
「これはだから、帰属を拒む超克者たちの越境の冒険でもあった」
生と死のはざまに聖人がいる。その殉教を描く。
終曲の後、聴衆は息を止めたまま、数秒の沈黙の後に拍手を浴びせた。
この曲も初めてであったが、フランク 交響曲ニ短調は圧巻のフィナーレを迎える。聴き終わって己の中に力が充足してくる感動はなかなか得られるものではない。万雷の拍手に終わった。
指揮者は歩くのも危なっかしい84歳であった。緩やかな曲想のときは手すりに腰を預けていたが、激情の表現では全身のエネルギーをぶつけていた。今回のコンサートの見事な成功は彼の気迫によるものだろう。演奏者の中には感極まった表情が多々見られた。
夕食は長男の奢りで鰻屋に行った。
さすがに人から貰ったチケットだけで済ませるのは心苦しいであろう(^^)v
と思いきや、この長男、昨年末に離婚していたのだが、今度再婚するという話を出してきた。ヤレヤレ。