pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

歩く 「震災について」の続き

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 健康の問題について言えば、私は現役の時代、十数年前になるが、重いうつ病を患った。以前にも「養護学校の暗黒」に書いたが、当時すでに同僚二人が自死、あるいは不審死を遂げていたのだった。

 私はかろうじて生き延びたものの、鬱病発症後には、適正体重を二十キロちかく超えてしまった。悪玉コレステロール高脂血症の塊であった。

 そのころはひたすら寝ていた記憶しかない。眠ることが一番の快感だったように思う。初めてベッドから離れて庭に出ようとした時は、思いもかけず転倒してしまった。その時の愕然とした気持ちは今も忘れない。三十代始めの頃の体力は高校生の平均をまだ上回っていたが、そんな自信は完全に喪失した。歩くことすらできなくなっていたのだ。

 私は家族の者に腕を支えてもらいながら、徐々に歩行距離を伸ばす事に努力した。歩くこと。一歩一歩ゆっくり歩くこと。それが私の歩くことへの自覚的始まりだった。

 始めは庭先まで歩く。慣れたら家の周囲を歩く。ひたすら眠る事だけが快感であった私は、以前は当たり前で考えることもなかった、歩くことができる快感や嬉しさに目覚めていった。そうして一年ののち、ようやく自力で近隣の山歩きができるようになった。幸いにして奥武蔵の山々が連なるこの地は、散歩やハイキングの場所にことかかない。四季折々の美しさは格別である。散歩や近隣の山歩きの魅力を深く認識したのは、この経験からである。
    
 その後、職場に復帰してからは、近隣の山歩きの余裕も消えた。職場の問題に翻弄されながら、定年退職まで何とか持ちこたえたのだが、報復人事で片道車で90分の廃校予定校に飛ばされた。その通勤途中自損事故を起こした。一年間の休職などで治るわけもなく抗うつ剤睡眠薬服用で運転していたのだったのだから呆れる。県は当然知っていたはずだ。

 
 鬱は退職し収まった。しかし退職後の健診で糖尿病と診断された糖尿病は父からの遺伝でもある。心身を疎かにした退職までの十数年間が響いたのだ。

 退職後は余裕ができ、大いに歩くことができるはずだった。しかし、父が私たちボンクラ息子に遺した名言通り、アテとモッコは向こうから外れるのだ。落語や都都逸の好きな父だった。

 私の長男としての両親の介護問題は、退職前からその萌芽があったが、多忙を理由に逃げていた。それが退職後に直面する事になったのだった。私の兄弟で退職した者は私一人。それまで医師である次男が面倒を見てくれていたが、その次男の独立開業を機に、私ら家族が看ることになった。そこに、東日本大震災が降りかかった。私の退職の一月前のことだった。

 三月末、ようやく臨時バスが仙台まで走るようになって、私はシュラフを担ぎ、食料を詰めたリュックを背負って行ったものだ。物資不足の中でも食料不足が深刻であったことを忘れない。仙台もまだ麻痺していた。運よく宿泊可能なホテルを見つけたが、暖房のない部屋のベッドで、ホッカイロを体に何か所も着けて寝たものである。
 当時、両親は実家に戻っていたが、大津波の押し寄せた範囲から僅かに離れていて無事だった。食料の乏しい中で、両親は平然としていたが、届けた食料を見て喜んでくれた。ところが、その三ヶ月後に、頑健だった父は脳溢血であっけなく他界した。九一歳の誕生日を迎えた日だった。 本人は百二十歳まで生きると宣言していた。死ぬとき、本人も「アテとモッコは向こうから外れる」と思い出したはずだ。

 父は海軍の生き残りで、その精神的な後遺症は身体の障害よりも辛かっただろう。父はなぜ百二十歳を目標にしたのか。おそらく、過酷な乗船勤務と戦場での死の恐怖が父の心の奥底に拭いがたく、蛭のように食いついていたのだろうと思う。
 敗戦間際、父の乗船していた艦が呉沖に停泊していたとき、米軍機の爆撃で沈没し、意識を失っていた父を友人が抱えて港まで泳いでいったという話を聞いた。艦の乗組員の中で生き残ったのはその二人だけだったらしい。爆撃を受けた瞬間、通信室の鉄壁に血と肉片が飛び散ったのを覚えている、と聞いたことがある。父の足の甲は皮一枚で半分ぶら下がっていたそうだ。
 私は父の戦争体験はほとんど聞かずに終わった。また、そのような過酷な記憶をあえて聞けるはずもなかった。本人が話すときだけ聴いていたのだ。

 晩年に認知症が―まだら認知症であったが、父の脳に深く浸蝕するまで、その蛭は六十年以上にわたり、夜な夜な悪夢となって父を苦しめていたのだった。深更、うなされる、というより叫び声、恐怖の声をしょっちゅう発していたが、母がそのたびに子どもをあやすように宥めていたことを覚えている。

 父の死後、次第に速度を速めて心身が衰弱してゆく母親を看ながら、親族の問題も被り、私は自分の健康に配慮する余裕は少なかった。

 母親の、地元の施設と病院を行ったり来たりの繰り返しが始まった。在宅介護も考えたが、施設の介護士さんたちの介護ぶりは、私たちよりずっと優れていた。私は見舞いがてらに、ほとんど毎日、施設や病院まで、自宅から歩くことにした。往復六キロから八キロ歩く事が私の日課となり、ゆっくり体力も向上していった。それは母が亡くなるまで約一年半続いた。結果的に体力が回復してきたのは、ひとえに母のおかげである。

体力と言えば、母に関して驚くべきことが起きていた。
話は前後するが、両親が実家に戻る前に、母は私の家で入浴中に転倒し、大腿部骨折により救急車で病院に運ばれた。

 ひどい病院だった。手術まで一週間待たされたが、見舞いに行って病院の実態を知ったのだ。金髪茶髪の、兄ちゃん姉ちゃんとしか呼べない看護士や介護士が、おしゃべりの片手間に入院患者の世話をしていた。病室のベッドでは、手を柵に紐で縛られていた患者がほとんどだった。しかも患者たちは、毎度の食事の二時間以上前から、廊下の手すりに車椅子ごと紐で縛られていた。

 食事は介護士らが患者の前を歩きながら、スプーンで口の中に詰め込んでいた。そこには人間としての何の意思疎通もなかった。機械的に口を開け、機械的に口に詰め込む繰り返しだった。ほとんどの患者は私の存在も目に入らない。目の焦点もなく車椅子に無表情に座っていた。そんな中、一人の老人が不意に私を見つめた。その目は深い哀しみと絶望を溢れんばかりにたたえていた。目を合わせたとたん、私はその場を逃げるように立ち去るほかなかった。

 こんなところに母を預けられない、と私は即断した。手術後に転院させるべく、地元の評判の良い病院に行き、若い医療相談員に掛け合った。ところが、途中まで話は進んだが、母の入院中の病院とコンタクトを取ったとたんに相談員は態度を一変させた。母の入院先の相談員から「転院させてなにか起きたら、そちらの責任ですよ」と脅されて、怖くなったのだった。

 私は怒りを抑えて、脅しにかかった相談員と談判した。
「巴琴さん、ここはね、姥捨て山なんですよ」
   相談員は無表情に言い放った。

 談判自体が無意味と悟った。転院希望の地元の病院の院長に、手紙で窮状を訴えることにした。そのチベット出身の院長が篤実な仏教徒であることを知っていたのだ。院長の判断は早く嬉しかった。手術後の母をすぐに受け入れてもらえたのだった。オペの主治医には袖の下を通し、転院許可を出させた。

 そんなわけで転院後の母の入院生活はリハビリ中心に組まれた。いつも前向きに生きた母は認知症もすすんでいたが、辛いリハビリも意欲的に取り組んでいた。そんな母が車椅子生活のまま、父と帰郷することになった。父は望郷の念が私の予想以上に高まっていたのだ。母はその、田舎での父との暮らしの中で、普通に歩くようになっていたのだった。父は他人が家に入り込むことを嫌って、ヘルパーさんを断っていた。おそらく、父なりのスパルタ「リハビリ指導」のせいと、歩きたいという母の強い執念のせいだったろう。母は自力で歩くようになったのだ。誰しもが驚いていた。

 父の死後、一人になった母を再び私の自宅に引き取ったが、その後は前述の地元の病院で入退院を繰り返した。
主治医はその入院の始めに、私たちにの前に、母の延命治療についての同意書を示した。丁寧で的確な説明だった。母にとってできるだけ苦痛のない治療をお願いし、延命治療は退けた。

 私は以前の母の入院時に、父から、母の延命治療はさせないと、判断を下してもらっていた。父の判断は早かった。私からの問いかけに対し、わずかな沈黙ののちに「延命は必要ない」と告げたのだ。父にとって最愛の妻であった母への父なりの覚悟だった。だから私は延命治療の可否を迷うことは殆どなかった。ありがたい父の判断だった。その父の判断がなければ私のような性格では延々と悩み続けていたかもしれない。ただ、苦悩と迷いは別の話だったのである。

 病院の部屋の窓の外には大銀杏の黄葉が輝き、光は黄金の波のように母のベッドに押し寄せていた。母の死は穏やかだった。

 両親とも、私が退職するまで頑張ってくれたことに感謝している。在職中であったらまちがいなく私は介護離職となっていただろう。
 それは同時に私自身の近い将来の問題を自覚させてくれた。私が死ぬときという事態は、できれば子どもたちが退職したあとでなければならない。それまでは元気に生きてなければならないということだった。それから自分の健康への責任を強く抱くようになったのだ。それには、まずは歩くことだった。


 

写真 施設への道

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大変美しい動画です。

 

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