pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

荻原碌山と明治

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 明治時代は、政治的には「維新」という、昭和の日本の破局を内包して始まった。当たり前の話で成り上がりの権力カネ女の3点男の新政府であり、始めから目も当てられない。全くよくもまあ、維新などと誑かすものだ。


 しかし、文化的には表現手段を手に入れた人々が一斉に文化の花を開かせた。百花斉放は国民弾圧の道具となった中国共産党スローガンであったが、日本人は自主的にあらゆる分野で新しい文化に魅入られ創造の扉を開いていった。そこには知性を輝かせた若人らが純粋無垢な言葉をもって情熱と献身に人生を捧げていった。

荻原守衛も彫刻美術でその魁として彗星のごとくに現れ消えていったが、その光芒は不滅である。


蕾にして凋落せんも亦面白し
天の命なれば之又せん術なし
唯人事の限りを尽くして待たんのみ
事業の如何にあらず 心事の高潔なり
涙の多量なり 以て満足すべきなり


こらは萩原守衛が遊学中に明治女学校時代の「最親友」片岡当(まさ)に送ったものと思われる書簡の当の抜粋である。

男女間の友情など信じない連中には無縁の文である。

 

彼は明治12年12月1日、安曇郡穂高村に農家の末男として生まれた。農作業の重労働に打ち込む傍ら小学校尋常科高等科を優秀な成績で卒業、13歳であった。如何に生きるか、既に彼の問題意識にあったという。「考える農夫」荻原守衛明治27年穂高禁酒会に加わる。15歳だった。

禁酒会とは西欧文化キリスト教を学ぶ学習会のようなもので、禁酒を謳っているところは農村では異端も甚だしいが、そこで養蚕事業家の相馬愛蔵、博学の小学校教師井口喜源治らとの出会いが萩原守衛の知的世界を一気に拡大させていく。井口は数年後学校から追放され私塾を開くが、内村鑑三より「信州のペスタロッチ」と評価されたほどの人物だった。

 

萩原守衛は16歳で心臓病を患うが20歳の日記で「人生は人為を以て如何ともなし難し・・・然して永遠の命は如何」という書き込みをなすほどに病と親しく付き合った。病をも感謝し受け入れた10代の男であった。

病を得てからは農作業の代わりに絵筆をとることになった守衛は安曇野の名山、常念岳に向き合う。自然と相対する彼の知性は農業から始まっているが、ここで美術という表現方法に入っていく。明治30年の春、スケッチをしていた守衛は白いパラソルをさした愛くるしい女性に声をかけられた。その女性がのちに守衛のミューズとなる、結婚で夫の里に来ていた相馬良、のちの黑光であった。まことに運命的な出会いであった。

 

黑光は仙台士族の出である。始め裁縫学校などに入れられたが12歳で、横浜バンドの一人、押川方義が開いた仙台日本キリスト教会で洗礼を受けていた彼女の知性は裁縫だけでは収まらずに宮城女子校に入学する。

 

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しかし、叔母の佐々城豊寿は少女時代男装して乗馬し街を駆け回っていたお転婆娘であり、勉学心に燃えた彼女はまた男装してまで上京する。

(明治5年まだ鉄道はなかった。しかし仙台から東京まで、母と中間に付き添われても徒歩で旅をするには少女には危険が多すぎた。男装は彼女に限ったことでは無い。案の定、ではないが、ソレガ逆な裏目に出て途中の宿で夜中に女中に襲われたくらいであった。また、黑光以上にそれほど美しい少女であった写真下)

先ず中村正直の東京の私塾同人社女学校に遊学し漢学を学び、更にはのちのフェリス女学院一期生として植木枝盛中島信行らに学び、加えて明治女学校で学び明治の女性社会運動家となる。ちなみに明治9年23歳の時に女子教育をテーマに女子師範学校で演説を打った。日本史上初の女性演説だった。当時の伊藤博文やらお偉いさん達には女は愛玩動物でしか無かったのであったから佐々城豊寿のような女性の出現には仰天しただろうし、民権弾圧は加速した。

 

 

 そんな叔母と黑光は気性も似ていた。

黑光は宮城女子校で教育方針に反発しストライキに加わり退学、フェリス英和女学校に転じた。あの愛くるしい美少女とは思えない過激な情熱を秘めていた。尤もフェリスにはそんな女性がたまに出るというのは後年知った。いまのアッパラパー女子充満の社会でもそんな怖ろしい女性は居るのであるから用心に越したことはなし。失礼、話が違う。黑光はまた、叔母同様に明治女学校にも入り、島崎藤村や北村透谷など新時代の文芸の旗手達や荻野吟子、内村鑑三、津田梅子、若松賤子らの情熱的な授業を貪ったのである。また少し脱線するが、藤村のバカ者は一度退職して、また舞い戻ったのだが、その時に運悪くフェリス出の黑光が教室に可愛い顔で座っていた。間抜けな藤村は以前教え子に手を出し捨てたロクデナシであったが、戻った時は棄教さえしてしまっていた。かつての才知と情熱に溢れた授業は面影もなく、期待していた黑光らを失望させた。その時、

 

「石炭ガラ」

 

とあだ名を付けたのが黑光であった。石炭の燃えカス……言われたくねえなぁ…

 

しかしこの「石炭ガラ」はその後もボヤ騒ぎを起こすが割愛する。

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荻原守衛はそんな黑光と死ぬまで家族同様に付き合っていく。守衛は相馬家で夥しい書籍を借りては読んでいくが、黑光が嫁入り道具で持参し壁に飾っていた油絵に心を奪われる。美神に魅入られたのだった。相馬家で明治女学校が刊行している「女学雑誌」も愛読した。それは校長の厳本善治編集のものであり、彼に心酔した守衛は自宅に押しかけている。二十歳を目前に控えた守衛は厳本に一身を託すべく上京、小山の画塾不同社に入る。また、明治女学校の敷地内に小屋を建てて住みつき(いくら何でも女学校内に住んだというのは他に知らない。如何に守衛が信用されていたかと言うことだ)、勉学と絵の修行に励んだ。

 

植村正久、海老名弾正、押川方義、小此木寒山内村鑑三などの説教や講演を聴いた。

 

しかし、校内敷地に校長認可の若い男がいる。女学生が放って置くはずもなく、守衛の小屋は「梨番小屋」とあだ名されたが、彼の机上には野の花が絶えることはなかったという。口は悪いが天性爛漫悪気の欠片もない守衛は今で言う女学生らのアイドルであった。

 

「恋の前には死も力なし…真の恋、この熱情の瞬間に於いて彼等は全く無我なるもの、夫れ死さへ力なし」

このように友人に手紙を書いた守衛だったが、一方で自分の道を求め足掻いていた。そんな守衛を女学生たちは愛しんだのだった。その一人が、冒頭に上げた守衛の「最親友」片岡当(まさ)であった。親友であるから恋人ではなかった。恋人となった女学生とは自分の道との板挟みとなり、守衛は更に苦悩を深めて行ったが、そのどうにもならぬ状況からの突破口がアメリカ遊学であった。

 

津田梅子からフィラデルフィアへの紹介状を得て明治34年3月13日横浜港から旅立って行った。徒手空拳と言って良い無謀に近い遊学であった。22歳。放浪と変わらぬ無残な暮らしの中でフェアチャイルド家の家僕となり、漸く人間の暮らしができるようになった。フェアチャイルド家ではこの若者への信頼が深くなり、愛されて行った。この男はどこでも愛されたのである。守衛はそのニューヨークからパリへとカネを貯めては遊学し、その間に高村光太郎らと厚誼を交わした。わずかな出会いの時間に親友となったのである。更に守衛はロダンの「考える人」を見て衝撃、つまり啓示を受けた。その瞬間、守衛は彫刻家を目指したのである。のち、ロダンを訪ねて「考える人」への思いを伝えるとロダンは守衛を「本当の弟子」と言った。更に、明治41年、7年ぶりに帰国の際にロダンを訪ねた碌山(初めてロダンを訪ねる前に守衛は漱石の「二百十日」を読んで、その中の碌さんという人物に惹かれて、自分の号としている)は、帰国の後に何を頼りに勉強したら良いかと教えを乞うた。

 

「仰ぐ師はどこにも存在する。それは自然だ。自然を研究するのが一番だ」

 

ロダンは碌山に餞の言葉をそう伝えた。ロダンはのち碌山の訃報を知って、碌山はフランス人よりも私を理解していたと残念がった。

 

帰国する日本では、相馬愛蔵は田舎暮らしで病んだ黑光を連れて東京で中村屋を開き、クリームパンの発明で家運隆盛を極めていくが、黑光も甲斐甲斐しく働き尽くして行く。そこに碌山が加わる。久しぶりにまみえた相馬家の人々ら碌山を以前同様に温かく迎えた。相馬愛蔵は社会的見識も高くまた文化への理解愛情も黑光同様であった。中村屋にサロンを開き文化愛好の士を自由に出入りさせていた。会津八一なども顔を出している。黑光の幼い子どもたちもいた。碌山は子どもが大好きで我が子の如く可愛がり面倒を見た。それは黑光への思慕とは別に純粋に見なくてはならない。

 

遊学中、「友」の13歳になる松井秀雄から菊の押花と短歌一首が送られて、松井少年が重い病に罹っていると知った碌山は思いの丈を涙の滲んだ手紙にした。その手紙が届く前に少年は亡くなった。母親はその手紙全文を日記に写して今に残る。それを読むと碌山の子どもたちへの愛情というものがどんなものか良く分かる。 

 

また、帰国後に黑光の子ども襄ニが5歳で亡くなったが、その時に碌山の描いた何枚もの襄ニの絵、襄ニを抱いた黑光の絵は胸を打つ。

 

「母と病める子」

ジョージ」などである。

 

さて、帰国してから、中村屋近くに兄がアトリエ兼自宅を建ててくれた。碌山はフランス留学中も美術学校で一等賞を取っていたが、いよいよ本格的に彫刻家として創作に励んだ。中村屋サロンではニューヨークで親友となった戸張孤雁がよく出入りしている。安曇野で出逢って以来、恐らく碌山の心の奥に隠れ輝いていた黑光への思慕も、再び身近な存在となり、それは恋となった事は当然だろう。しかし碌山はそんな思いを表に出す事は全くなかった。愛蔵へも黑光へも最大限の敬愛と思慕の念を抱いて暮らしていた碌山はある時、愛蔵が穂高の土地の女性と関係している事に気づき、また黑光のその悩みを知る。そこで黑光に愛蔵と話し合う事を強く求めて行かせたのだった。そこからが、いくらケジメをつけても男女性は避けられずに、同情は恋となる。黑光としては既に家を構え子どもも何人もいる。お腹にもいる。碌山の思いを知らぬ訳はないが

応える事もあり得なかった。

 

「そんな思いを芸術に注いで下さい」

 

と、黑光としては思いもかけずに口に出てしまった言葉であるが、どれほどそれが碌山を苦しめたかは想像に難くない。一方、黑光が背負う子ども達などの枷が無ければ彼女もまた碌山と生きる事は彼女の資質から簡単な事であったから、彼女自身の苦しみもまた想像に難くない。碌山は全て承知の上でケジメをつけた日々の中で黑光や子どもらに寄り添って生きた。

そして、最期の作品「女」を死力を尽くして完成させたのち、たった2日間、血を吐きながら黑光と戸張孤雁に手を握られながら亡くなった。30歳、帰国して2年後のことであった。

 

彼の作品には人間の全てが込められている。

ギリギリの絶望と希望。

愛の力がその銅像に溢れている。

 

「文覚」

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「デスペア」

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「女」

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は特段の名作である。

 この「女」を黒光が初めて見たときは茫然自失、言葉にならなかったそうである。

 

 

「この美術館は二十九万九千百余人の力で生まれたりき」

碌山美術館本館裏側に記された言葉である。また、正面砂岩の壁に

「LOVE IS ART STRUGGLE IS BEAUTY」

との碌山の言葉が刻まれている。

作品そのものの言葉である。

 

碌山が亡くなり時代は大正へと変遷してゆく。そこには大正理想主義の煌めきと呼ばれた世界が

扉を開けたのだった。

 

 

 

以上、私が安曇野碌山美術館が一番落ち着くという理由です。