pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

書は言を盡さず,言は意を盡さず 改稿



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周易繋辭上傳に有り

書は言を盡さず,言は意を盡さずと。

書物は言葉を十全に満たすものではなく
言葉もまた意を十全に満たすものではないと。



むかし

霧に包まれた林の中にカッコウの声を聴いた詩人がいた。
詩人はそのカッコウの声の響きに深い人間存在の孤独を理解した。
しかし
その深さはどれほど深いものかは私は始め分からないままに過ごした。

        「かっこう」

  しぐれた林の奥で
  かっこうがなく。

 うすやみのむかうで
 こだまがこたへる。
     
         (中略)

 いまはもう、さがしようもない。
 はてからはてへ
 みつみつとこめる霧。
 とりかへせない淋しさだけが
 非常なはやさで流されてゐる。

 霧の大海のあっち、こっちで、
 よびかはす心と心のやうに、
 かっこうがないてゐる。
 かっこうがないてゐる。・・・・・        
                            (光晴)

 

深い
ただそう理解するのみだ。
深さは相対的だが個人においては絶対値を取る。

辻まことはこの詩を読んで驚嘆し「この最初の三行だけで、私は、人間の孤独と、孤独な人間の世界が、明確 に表現されていることに驚嘆する。」と書いた。

とすれば、
辻まことの感じ取ったその深さに触れながら
また自分の感じた深さを測るほかはない。そして辻まことは続けて書く。


「単に時空を共有しているということだけで、体温を暖めあおうとする、人間の生理がどんなにむなしいものであるかを、孤独者は知っている。誰かと笑いあった、誰かと涙をながしあったことの虚妄、それらのあいまいな妥協。実際をともなわない経験のながったらしい時間的空白。自分自身に対する愛情の稀薄と、無意識なうらぎりにみちた幾日かを、私もまた悔恨とともにおもう。
 いまはすぎさった恋人や友、その人々に、もう一度私の誠実を示したい、もしそれが無縁なふれあいであったというにしても。追憶に浮かぶ日々は、ながい一時間のように空虚だったと告げるにしても。」


この辻まこと金子光晴という稀有な「孤独者」への感想に仮託した自らの思いー孤独ーについてどう理解したらよいか、もちろん正解はありようもないが私の妄想的理解では『絶望の精神史』を書いた光晴同様に敗戦後いち早く戦後日本のバカげた姿ー国民ーと自分との隔絶が深く在った事実も重視すべきであろう。もちろん母伊藤野枝の甘粕大尉による惨殺や父辻潤の発狂などの要因も深刻であるが。辻まことのこの一文によって私は光晴の詩の絶望的に深い孤独を知った。


話は戻る。

言は意を盡さずという。
ならば
その意を汲むに意を以て当たるほかはない。
言葉の
深い奥に沈んだ真澄の意を

しぐれた林の奥に響き渡るかっこうの声を

自分もしずかに
この初冬の夜に聞かねばならない。


意(こころ)は言葉に表れ、言葉によって書は生まれる。

詩は言葉に有り余る意を与える。

よって古典の書物や詩(和歌も含め)は心の大海のごとくである。

私たちはその大海に浮かぶ笹舟のようなものである。




以上、拙詩に於ける引用の補足
辻まこと 「かっこう」
http://kotomi.fan-site.net/yomu/kannsou1.htm

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