以下、1月26日、地元での講義内容です。中身は以前書き留めたものに手を加えたものです。楽しい時間を過ごさせていただきました。
源氏物語 紅葉賀 渡辺玉花作
一 言葉
子曰、書不盡言、言不盡意。 「易経」繋辞上伝
子曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。
意(こころ)は言葉に表れ、言葉によって書は生まれる。しかし、言葉も書も意を十全に伝えることはできない。だからこそ文芸は生まれる。文芸は意の大海のごとくである。私たちはその大海に浮かぶ笹舟のようなものである。
二 和歌を愉しむ
拙文『安曇野と白馬八方池』より抜粋
七月十六日、夜が白んでくるころにホテルのベッドの上で目覚めた。開け放った窓から流れ込む冷気が体を撫でている。蜩が鳴き始めた。寝坊の私が朝に蜩が鳴き始めるのを聴くのは久しぶりだ。あの、かなかなかなという響きにはどこかしら哀調をともなうのだろう。近くは『蜩ノ記 』という小説があり、古人は蜩を秋の季語にした。また、万葉集にも詠われるなど、日本人の感性を作ってきた。
ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつみべし 万葉集
蜩の鳴くようなわびしい気持ちの時は、そうだね、(夕暮れの)野辺を歩いておみなえしの咲いているのを見つけてごらんなさい、気がまぎれますよ、と、こんな歌意で済ますならつまらぬ。しかし、花を女性と観れば歌意は一変する。もちろん、「見ゆ」は「逢う」に同じ。「逢う」は「抱く」に同じ。お洒落な歌である。まあ万葉の人たちはおおらかであったと感心する。一体に蜩は夕景に詠われる歌が多いのも頷けるというものだ。近くの蜩の声は大きく、遠くになるにつれ小さく聞こえるのは当然だが、半睡のおぼろげな頭で聞いていると、近くの声の次に遠くの声と、交互に鳴き交わしている。明け方の蜩は山の冷気の中で呼び交わしているんだな。そうか、恋の歌だものな。雑念だらけの人間は遠く及ばぬ。
やや長くなるが、以下、私が「蝉」の和歌について以前に書いたものだ。「歩く」からの抜粋である。
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十月に入った日曜、滅多にない秋晴れに誘われて十日ぶりに歩いた。
ツツジがまばらに咲いていた。おやおや、気候に騙されたのだ。楽しませてくれる、こんな騙され方なら良い。更には蝉の声がわずかに聞こえてきた。ただ、いくら何でも十月。帰宅して調べたら十一月まで鳴いている蝉もいるそうだ。
昼は鳴き夜は燃えてぞ長らふる蛍も蝉もわが身なりけり 紀貫之
蝉が単独で詠われる歌は蛍にくらべ少ない。この貫之の歌はめずらしく蛍と蝉をセットにして、恋に焦がれる歌として、親しまれている。
しかし、「恋」する彼らは同時に、蝉も蛍もその命のありったけを燃やし尽くして最期を迎えているのだ。彼らの「恋」は同じ「恋」でも、それは死を意味する、まことに壮絶な「恋」なのだ。貫之がそんな事を知らぬはずはない。「ながらふ」つまり貫之は生き続けながら、儚い命である蛍も蝉もわが生と同じと観た。儚い命として己の命を観た。したがって、私は、この歌は死をも厭わぬ貫之がその死生観を、己が生を、切実、激情の恋の歌として重ねて詠んだのだ、と理解している。
あの紀貫之の時代も死は行住坐臥、人々の目の前にあった。のちの平安末となると飢饉あり疫病が流行り、地震台風から戦乱まで、都は死体の腐臭だたよう時代であった。一方死は憧れの彼岸に渡る方法でもあった。風狂の僧侶たちは西方浄土に向かって海に飛び込み、あるいは木乃伊となった。平安末期の歌人西行は釈迦入涅槃の日に死んだ。前に「儚さ」と書いた。平安の人々がとらえた「儚さ」を後世の人は女性的感性ととらえたが、どうだろうか。それは全く逆で、死をまっすぐ見据えた人たちが自覚しえた「思想」ではなかったろうか。鴨長明の記す、「あはれ」という言葉の持つ精神的な厳しさと同じと私は考えている。
また、いとあはれなる事も侍りき。
さりがたき妻(め)・をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々(まれまれ)得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳(ち)を吸ひつつ、臥(ふ)せるなどもありけり。 『方丈記』
そう見てくると、貫之の歌に、なよなよした姿はかけらもない。「わが身なりけり」の「けり」とは、紀貫之の、自分の生の認識に基づいた、覚悟としての堂々たる詠嘆である、と私は読む。
この十月の蝉の鳴き声が身にしみて聞こえてくる。秋晴れの輝く森の中で、盛りの時期を外した孤独な蝉の鳴き声はうら悲しくも聞こえた。そう、私はこうやって歩いてきて、いま、お前の鳴き声を聞くことができた、と心の中でつぶやいた。季節はもう冬に向かっている。冬は新しい命を静かに見守る季節である。
三 三夕の歌 (新古今和歌集巻第四)
心なき身にもあはれはしられけり
鴫たつ沢の秋の夕くれ 西行
みわたせば花も紅葉もなかりけり
浦のとまやの秋の夕暮 藤原定家
さびしさはその色としもなかりけり
まきたつ山の秋の夕暮 寂蓮法師
高校の時に初めてこの歌に出会ったときの印象は大変強いものがありました。古典の、特に和歌の言葉の深い余韻とその描く情景に惹かれたのです。ただそれは絵画的イメージが強く先行していたようです。そんな三夕が私の中ではずっとくすぶっていました。公式の解釈はわかるが、そんなものかなという判然としない心持ちです。特にこの三年、下手の横好き、外聞もなく短歌を詠み始めてから、和歌のもつ精神性に関心を持つようになりました。ただの叙情ではないという和歌への認識です。
以前「今様から歌謡曲まで」で触れましたが、和歌とは本来神へ捧げる歌、人間の止むにやまれぬ思いの表白としての歌であったと思います。そんな私がふと図書館で出会ったのが『西行の風景』でした。桑子敏雄さんという哲学畑の先生の著書です。驚きました。読後、西行への見方が一気に深くなったように思います。西行論は沢山ありますが、どれも面白くない中で、この著書ほど面白くまた西行像、西行の歌の解釈に於いて明確な見方を示してくれるものはありませんでした。かの小林秀雄や白洲正子、など如何にてきとうな解釈をしていることかなどがよくわかります。
「和歌即真言」という西行の思想を、桑子さんは天台密教に於ける「天台真言」から迫り、空海の真言を神仏習合においていわば止揚していきながら西行がたどり着いた真理であったと観ます。真言ー仏教的真理を和歌において具現化しようとしたのが西行の和歌であると説きます。
難解極まる梵語、サンスクリット語にその真理を求めていた空海の発想に対し、日本語でかつ和歌の言葉でその仏教の真理を把握しようとした西行は、中国語やサンスクリット語に同等に対峙できる日本語という自信と実践を示したわけです。驚くべきことです。シルクロード文化、中華圏の文化、なかんずく仏教という新思想への傾倒と必死の吸収の努力は同時に自国文化・言語を軽視するものです。例えば、明治維新などでは、権力者側の粗暴により一層酷い状態に陥り、結局文化・国家共々滅亡していきます。西行の思想は全くそんな風潮に阿ることなく自身の咀嚼した仏教ー神仏習合の真実をやまと言葉での和歌に表したのでした。そんな歌の代表例が三夕に選ばれた歌です。
「西 行の「鴫立つ沢」の詞書には「あき、ものへまかりける道にて」とある。西行はたまたま夕暮れ時にある沢にさしかかった。木々はモノクロームの風景となって 広がっている。その静けさに突然鴫の羽音が響く。夕暮れの沢を背景にして、まだ明るさの残る空へと鴫はシルエットとなって飛び去る。ここでの「立つ」は 「飛び立つ」ではない。それは夕暮れの沢の空間に現れる「立つ」、出現の「立つ」である。この「立つ」は、「霧が立つ」「風が立つ」「煙が立つ」「雲が立つ」、それどころか「神が立つ」の「立つ」、すなわち「出現する」の意味である。」
桑子氏はそのような「読み」から「鴫たつ沢」を「鴫が突然現れて飛び去った沢」と観る。夕闇に眠りに入ろうとするモノクロームの景、黒々とした木立の向こうに突如鴫が立ち現れ、羽音とともに掻き消えてしまう。冷え冷えとした沢の水面に現れる波紋が緩やかに静まっていく。
「こころなき」とは仏道修行に入った西行の、俗世の心がないという認識である。喜怒哀楽を含め人間的な執着心を捨てて己を「空」にすることが大日如来の教え『大日教』であり、西行が「和歌というものがすなわち、如来の真の形体である」とした拠り所であった。西洋哲学同様に自心を知ることから始まり、「西行の言葉では、究極の存在(悟りや慈悲)に到達するための方便として和歌が捉えられているのである。・・・ 略・・・とらわれの心を自覚し、清らかな心の存在に覚醒すること、それが虚空の如くなる心に仏像を描くことである。仏像を描き、真言を唱えること、このことと和歌を詠うことが同じだと西行は言う。」
「自心を知るという目的に対して、答えるのがマンダラであった・・・神仏習合を表現する垂迹 曼荼羅や参詣曼荼羅が日本の景観、風景を描くのも当然のことであった。その日本の風景の持つローカリティに立つ言語が日本語であり、そのもっとも日本語らしい使用が和歌であった。和歌をもって真言とすることは、いわば、垂迹曼荼羅を和歌で描くことであろう。」
西行の詠う花は花であって花ではなく、月であって月ではない。写実に見えて単なる写実ではない。「虚空」に映し出された西行の心であり西行の悟りであった。
そんな西行の「心なき身」にも、いやそんな西行だからこそ「あはれ」をモノクロームの風景の中に見出したのだった。あはれ、という王朝美学が到達した美意識は『源氏物語』をも生み出したが、和歌によって更に思想的裏付けを持った「ことば」としてその頂きを見たのである。
あはれとは何か。日本王朝の到達した最高の美意識であり思想である。それはそれぞれの場に、描かれた世界や自己の眼前に現れる風景の中に見出すほかはない。「しみじみとした情趣」には違いないが、その形相の、対象とする「世界」の真実・真理をそれらの中に共時的に共感の中で感じ取っていくほかにない。修行のなかで、俗世を捨て去った西行の「こころなき」心にその「あはれ」は単色の風景を前にして立ち現れたのである。単色、モノクロームの風景という世界に留意したい。
見わたせば花も紅葉もなかりけり
浦のとまやの秋の夕暮 藤原定家
前文において「モノクローム」という表現を桑子敏雄氏が使っていることを述べましたが、その世界は定家のこの歌によって深められていきます。
「作 者は、現実の海岸に立ち会っているかのように、花や紅葉といったこの世の現象を否定的に捉え、その否定性を浦の苫屋の秋の薄暮のなかに詠う。この寂寥こそ、定家が(西行の)「鴫たつ沢」から読み取り、そして自分自身のやり方で表現した世界の本質である。夕暮れの風景のなかに西行が「あはれ」と表現したものを詠おうと試みた定家は、鴫立つ沢からモノクロームの情景をとくに取り出して、海岸の風景に置き換え、静寂を表現した。「鴫立つ沢」の歌の真意を定家が 理解していることを示している」
西行は晩年 『宮河歌合』という自歌合(じかあわせ)を伊勢神宮に奉納しましたが、その判詞(2首の優劣を判じる)を若き定家に委ねたことは,西行の歌の道に関する、定家への深い信頼を表してもいます。
花も紅葉もない・・・その世界をまた更に進めたのが寂蓮の歌でした。
さびしさはその色としもなかりけり
まきたつ山の秋の夕暮 寂蓮法師
折口信夫がこの歌を、ただ槇の木がつっ立っているだけのつまらぬ歌と評しているようですが、折口も「たつ」という語の真意(前日記)を読めなかったと見るべきでしょうか。
「それは槇がつっ立っているという意味ではない。槇が立つというのは、槇が出現するという意味である。ここでは「夕霧」という言葉は使われていないが、「秋の 夕暮」と「立つ」という表現そのもののうちに含まれていると考えられる。槇は夕霧の中から突然現れる。秋の夕霧におおわれた山に、その霧が流れて、突然槇の木が出現する。一面におおわれた夕霧の中では、すべての色は消え去っているが、その「色のない」モノクロームの「さびしさ」のなかで、一瞬霧が切れて、 槇が視覚的に出現するのである。
・・・・中略・・・・「つっ立つ」静的な解釈ではなく、「出現する」動的な解釈である。「鴫たつ沢」では、予期せず突然鴫が羽音とともに出現し消滅した。その空間の静寂に、時間性を含む空間の存在の根源性を感じ取った西行は、空間とみずからの「心無き身体」との関連性を「あはれ」と表現した。それに応じて寂蓮は、同じように出現の空間を詠い、そこに見出した感動を「さびしさ」と表現したのである。
鴫の出現する空間に西行が心なき身を置くのと同様に、寂蓮は槇が出現する空間に、その出現を知覚する自己の存在を見出す。槇が立つ、出現するとは、その出現を目撃する者自身もまた霧で覆われていたことを意味する。自己の身体も向こうに存在するはずの山もすべて霧に隠れている。そこに霧が晴れて槇が出現する。槇の 出現とそれを知覚する者の身体もまた現れるのである。槇とともに身体の配置が出現すると言っても良い。その風景と自己の身体存在との知覚的出会いを表現するのが寂蓮の「さびしさ」であった。
三首はともにモノクロームの「あはれ」、「さびしさ」をどう捉えるかという点をテーマにし、風景の空間的出現と自己の身体配置の関係を詠っている。」
「(定家の歌は)もはや西行の詩境とは殆ど関係がない。新古今集で、この二つの歌が肩を並べてゐるのを見ると、詩人の傍で、美食家があゝでもないかうでもないと言ってゐる様に見える。寂蓮の歌は挙げるまでもあるまい。三夕の歌なぞと出鱈目を言ひならわしたものである」
流石に小林も西行を理解できないながらあまりケチは付けられなかった。しかし、出鱈目は、君。傍らの実際の美食家インテリも、君、小林君であった。何か偉そうな態度を示さないとマズイ、そう考えたかどうかは知りませんが、批評家とか評論家という職業の怖さでもある。
「同様に西行の歌に対する「心の疼きが隠れてゐる」(小林秀雄)とか、「肺腑の底から絞り出したような調べ」(白州正子)などといった解釈が定家や寂蓮のみた西行の詩境といかに隔たっているかは明らかだろう」
以上「 」内 『西行の風景』より引用。
四 式子内親王
「あはれ」という王朝文学の美意識の深さは式子内親王の次の歌で「沈むかな」の「かな」という静かな詠嘆を添えられて美しい。しかし、前述の桑子氏の読みに従えば
「見渡せば」のモノクロームの風景と「鴫たつ沢」の羽音という聴覚の風景を統合したのが「色々の」の歌だとすれば、霧の立つ風景と鴫たつ沢の「あはれ」とを統合したのが、やはり式子内親王の次の歌であろう。
おしこめて秋のあはれに沈むかな
麓の里の夕霧の底 式子内親王
「私の考えでは、日本の詩歌のなかでもっとも哲学的な内容を秘めたこの歌は、存在するすべてのものを包み込む霧の風景を「あはれ」として捉える。この「あはれ」は鴫たつ沢の「あはれ」と同じものであり、同時に寂蓮の詠う霧からの出現の風景を逆手にとって、すべてが霧になかに沈み込む風景を詠う。もちろん、霧はやがて晴れる。その時は、霧のなかから、麓の里の風景が出現するはずなのだが、いまは霧にすべてが沈んでいる。風景の出現を否定的に捉えた傑作である。」 「 」内 『西行の風景』より引用。
***
西行はおもしろくて、しかも心もことに深くてあはれなる、有難く出来がたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。これによりておぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり」(後鳥羽院御口伝』)。
***
「和歌はつねに心澄むゆゑに悪念なくて、後世(ごせ)を思ふもその心をすすむるなり」(『西行上人談抄』)。
***
「西行法師常に来りて物語して云はく、『我歌を詠むは、遥かに尋常に異なり。花・ほととぎす・月・雪、すべて万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なること、眼に遮り耳に満てり。又詠み出すところの言句は、皆是真言にあらずや。花を詠めども実(げ)に花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月と思はず。只此の如くして縁に随ひ興に随ひ詠み置くところなり。(中略)此の歌即ち是如来の真の形体なり。されば一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。我此の歌によりて法を得ることあり。もしここに至らずして妄(みだ)りに人此の道を学ばば、邪路に入るべし』と云々」(『明恵上人伝記』)。
***
昨夕は久しぶりに青空がのぞいたので散歩した。秋の冷涼のなか季節を味わった。写真はその時のものである。武蔵横手の谷間の里が深い霧に沈んでいる。何度読み返しても心を打つその歌の描く美しい光景が俯瞰する眼前にあった。式子内親王は里の内側から、私は外から。
一三世紀には日本でも本格的な水墨画が描かれていたという。西行の生きた時代に既に日本に入っていた。その水墨画は禅宗を背景に室町・安土桃山時代には全盛を迎えた。国宝である長谷川等伯の『松林図屏風』はその到達点であり絶後であるが、彼の絵は西行に遅れること四〇〇年、漸くにしてこの歌の境地を表現し得たと感じる。
「等伯画説』第七〇条に、堺の宗恵が梁楷の柳の絵を見て呟いた「静かなる絵」という言葉に等伯は共感して、自分の理想の絵画を「静かなる絵」と考えた話を記す。(wiki)
『西行の風景』に於いて桑子氏は西行を「静かなる男」と評している。西行は出家まえより「静かなる」男だったという評価に頷く。
鳰てるやなぎたる朝に見渡せば
こぎゆくあとの波だにもなし 西行
ほのぼのと近江のうみをこぐ舟の
あとかたなきにゆく心かな 慈円
鳰のうみ (琵琶湖)
五 和歌の愉しみ 小侍従
小侍従ははなやかに、目驚く所よみ据うることの優れたりしなり。中にも歌の返しをする事、誰にも優れたりとぞ(鴨長明『無名抄』)。
例えば、ほぼ同時代の女房歌人である宜秋門院丹後の作が穏和で靜謐な中世的情趣を顕著に示しているのに対し、小侍従の歌は平安朝的な色香をなお濃厚に漂わせているところに特色があろう。それは歌人としての古めかしさとも言えるのだが、発想は機知に富み、個性的である。平安後宮文芸の掉尾を飾る、艶やかな花とも呼ぶべき歌人であった。
私の小侍従への理解は右の『辛酉夜話』というサイトに依るがそのサイトは残念ながら消滅した。小侍従が和歌の世界に登場するのは彼女が三十代になってからであるが、それまではおそらく、やはり琴の名手であった太皇太后多子に仕えながら琴を披露していたのではないか。彼女は以仁王に琴を教えていたほどである。すなわち彼女の和歌の場合はその琴という音曲の世界と和歌の世界を併せて考え、受け止めることが重要に思われる。和歌のもっとも重要な要素は調べであるからである。歌を詠む、すなわち詠唱に歌会の意味がある事に留意しながら歌を愉しむのが一番であろう。
次に和歌の重要な点が歌集に於ける部立てだが新古今和歌集を例に挙げる。すなわち巻第一~第六までが四季自然を詠う歌であり、四季自然が一番重要視されていたのが分かる。その次に重要視されたのが恋の歌であった。
日本古典文学摘集 平家物語 巻第五 より(改行、歌の部分のみ原文表示)
***
治承四年六月九日、新都造営の事始めがあり、八月十日に上棟、十一月十三日に帝が遷幸すると定められた `京は荒れてゆき、福原は栄え始めた `ひどいことの多かった夏も過ぎ、既に秋が訪れていた 。
秋も半ばになると、福原の新都におられる人々は名所の月を見ようと、源氏の大将の昔の跡を偲びつつ、須磨から明石の浦伝いを行き、淡路の灘を渡り、絵島が磯の月を見たり、あるいは白浦、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上の月の曙を眺めて帰る人もあった `京に残る人々は、伏見・広沢の月を見る `中でも左大将・徳大寺実定卿は、京の月を恋い、八月十日頃に福原から京に来た `みなことごとく変わり果て、稀に残る家は、門前に草深く生い茂り、庭の草は露をいっぱいに乗せていた `蓬は杣のごとく、浅茅の野原のごとく、鳥の住処のごとく、みな荒れ果てて、虫の声さえ恨みがましく、黄菊・紫蘭の咲き散る野辺となってしまった `故郷の名残としては、近衛河原に姉の大宮・多子殿だけが住んでおられた
実定卿はその御所へ参り、まず随身を遣って正門を叩かせると、中から女の声で `蓬が茂って露を払う人もないこんなところを訪ねてくるのはどなた `と訊くので `福原より実定殿がお上りになられました `と伝えた `正門は錠が鎖してあります `東面の小門よりお入りください `と言うので、実定卿は、それではと東の門から入られた
大宮はつれづれに昔のことを思い出されてか、南面の御格子上げさせ、琵琶を弾かれてるところへ、実定卿がすっと入ってこられた `なんと、これは夢かうつつか、さあこちらへ `と言われた
源氏物語の宇治の巻にある、優婆塞宮の御娘が秋の名残を惜しみつつ、琵琶を奏でて夜通し心を澄まされ、有明の月が出ても、まだ感じ入っておられ、撥で招かれた、という話もなるほどと思える `待宵の小侍従という女房も、この御所におられる `この女房を待宵と呼ぶのは、あるとき大宮から `待宵と帰る朝とどちらが哀切か `と尋ねられたとき、女房が
待つよひのふけゆく鐘の声きけばかへるあしたの鳥はものかは
そのことから `待宵の小侍従`と呼ばれるようになった
実定卿はこの女房を呼び出し、今や昔のことなどを語らい、夜もすっかり更けると、京の荒れゆくさまを今様にして歌われた
旧き都を来て見れば浅茅が原とぞ荒れにける
月の光は隈なくて秋風のみぞ身には沁む
と三度歌われると、大宮を始め、御所の女房たちは皆衣の袖を濡らされた そのうちに夜も明けたので、実定卿は暇を告げて福原へ戻られた 供の蔵人を呼ばれ 侍従はどう思うだろうか、あまりに名残惜しげだったから、戻って何でも好きに言ってこい `と言われると、蔵人は走り戻り、畏って `実定卿が `このように申せ `とのことです と
ものかはと君がいひけん鳥の音のけさしもなどかかなしかるらん
女房はすぐさま
またばこそ深けゆくかねもつらからめあかぬわかれの鳥の音ぞうき
蔵人が走り帰ってこの由を伝えると `だからこそ、おまえを遣わしたのだ `と実定卿はとても感じ入られた それ以後 `ものかわの蔵人 `と呼ばれるようになった
***
この平家物語の話は女房として生きた小侍従のイメージを髣髴とさせます。当意即妙にして艶。たくさんの勅撰集にも彼女の歌は入れられています。私は彼女の恋の相手の中で源頼政と平忠度、そして恋を超えている存在としての西行を考えます。源頼政は以仁王を奉じて挙兵するまでは平家一門に忍従し朝廷に仕えた武人でしたが歌人としても有名。治承四年(1180年)七七歳にしての決起。以仁王と小侍従の関係まで考えると、その決起の背景には物語が隠れていそうです。平忠度もまた歌人としても名高く平家物語巻七「忠度都落ち」と巻九「忠度最期」に登場する文武両道の武人です。「青葉の笛」で近代でも有名です。西行もまたこの二人と同じく美男にして頼朝に武芸を教えるほどの文武両道。
忠度
かからじと思ひしことを忍びかね恋に心をまかせはてつる(忠度集)
忠度
家づともまだ折りしらず山ざくらちらぬにかへるならひなければ (忠度集)
かへし(小侍従)
我がために折れや一枝山桜家づとにとは思はずもあれ (玉葉和歌集小侍従歌)
忠度
あやなしや世をそむきなば忍べとは我こそ君に契りおきしか (忠度集)
思ひやれ君がためにと待つ花のさきもはてぬにいそぐこころを(頼政集)
かへし(小侍従)
逢ふことをいそぐなりせばさきやらぬ花をばしばしまちもしてまし (頼政集)
とへかしなうき世中にありありて心をつくる恋のやまひを (頼政集)
かへし(小侍従)
いかばいきしなば遅れじ君ゆゑに我もつきにしおなじやまひを (頼政集)
琴の音に涙をそへて流すかなたえなましかばと思ふあはれに (山家集)
かへし(小侍従)
頼むべきこともなき身を今日までも何にかかれる玉の緒ならむ (山家集)
大納言三位為子の小侍従を偲ぶ歌です。
ことの葉の露におもひをかけし人身こそはきゆれ心きえめや
小侍従墓(大阪島本町)
和歌の愉しみ 厳島記
夜も次第に更けていった。小侍従は一人宿所から抜け出て厳島神社の平舞台に立った。文月の潮風は心地よく、社の背後に聳え立つ弥山は黒々と銀河を仰ぐ。
小侍従と警護のため源頼政が遣わした配下の武士四人の一行は、都から七日をかけて厳島に着いた。唐船から渡し舟に乗り、波の照り返しのなかに朱色に輝く厳島神社の大鳥居を仰ぎ見ながら、初めてこの地に降り立った時の小侍従の感動は言葉にならなかった。
一歩一歩踏みしめる、神の島の白砂の音が小侍従の心を満たした。瀬戸内の海や数々の青々と輝く島の景色。また、海で暮らす人々の精気あふれる褐色の姿は、宮中に暮らしていた頃には想像もつかぬ広々とした美しい景色であった。小侍従はこの旅に出て都の外の世界を初めて知ったのだった。女房たちの、執拗で陰湿な虐めに打ちひしがれている小侍従の気配に、御心を痛められた太皇太后多子様は、小侍従に暇を賜れた。小侍従の歌友である平経盛は、小侍従が宮中から下ると聞き、小侍従に厳島への旅を勧めた。
「わが兄清盛公が造営された厳島神社をお参りになってはいかがです。船で海を渡っていくのですよ。私が旅の手配をいたしましょう。お疲れを癒してくだされ」
そう経盛から伝えられると、小侍従の疲弊した心に一筋の光明がさしたのだった。
小侍従は寄せる波を間近に見ようと、本殿の平舞台の端に座った。波は折しも山の端にかかった満月の光を受け、秘曲の音色のようにさざめいては輝いている。その場に琴があれば小侍従は無意識にでも弾き始めていただろう。幼き日に雅楽頭源範基に導きを得た琴は、数年で秘曲を伝授される腕前となったが、小侍従は人前で弾くことは滅多になかった。
煌々たる満月の光に、平舞台も明るく、濃藍色に浮かぶ安芸の対岸まで見渡せた。身じろぎもせず小侍従は目を閉じた。さざ波の音の中で五十三年の来し方が小侍従の胸を駆け巡った。
「小侍従さま」
振り返ると、釈王内侍がこぼれんばかりの笑顔で白百合を活けた壺を差し出した。
「これは私どもが平忠度さまより御ふみにて承ったものです。当地の百合の花を小侍従さまにお届けするようにと」
月明かりに映し出された白百合の花は社内随一の美人と噂された釈王内侍の顔にもまさる清楚な一輪だった。花の下に小さな文が結ばれていた。開くと忠度さまお手跡の歌がしたためられていた。
いつくしま白百合の花夜床にも愛しと匂ふ妹ぞかなしき
万葉のお歌を本歌取りなさった忠度さまのお歌と小侍従は即座に気づいた。忠度さまは老いた私にも気遣って下さる。小侍従は感謝した。昔、短い期間、忠度と恋の歌をやりとりした思い出がよみがえった。百合はかぐわしく小侍従の記憶を染めた。釈王内侍は低く頭を下げると去っていった。
しずかに時は動いていった。月は中天にかかり、銀河は影を薄め、波は一層煌めいていた。このまま時が止まってくれたらという、幼い頃の願いを思い出して小侍従は微笑んだ。
ふと風が吹いたのだろうか、脇に置かれた白百合の花が一瞬頷いたように見えたのもかわいらしく思えた。その時、旅装束のまま、一人の影が背後の回廊から歩いてきて、笠の紐を解きながら小侍従の傍にすっと座った。
「しばらく。ご無沙汰しておりましたなあ」
多少はしわがれているものの、その覚えのある艶のある低い声に小侍従は驚き、横に着座した男を見た。やはり西行だった。
「驚かせてすまぬ。いま、着いたばかり。貴女がここにいると聞いてすっ飛んで参った」
西行は額の汗を拭いながら話を続けた。
「貴女が宮中を去って厳島に向かっておられると旅の空に聞いてのう。おお、懐かしや小侍従殿が、そうか、よい機会だ。久しぶりに厳島にも参りたいでな。いや、お元気そうなお顔を拝見して嬉しい限りですな」
小侍従は、二十年以上も昔のこと、重い病を患っていた事があった。その時に西行が見舞いに訪れてくれたことを思い出し、小侍従は思わず涙をこぼしそうになりながら礼を述べた。
「あはは、いや、礼には及ばぬわい。あの時はな、万一貴女が亡くなられては貴女の琴を生涯聴けなくなってしまう。それは拙僧の今生何よりの無念、と存じたまで」
そう、ある晴れ渡った冬の朝。その時は病もかなり癒えており、雪の輝く庭に向かって、西行に、伝習した秘曲をお聴きいただいたことなど、小侍従は懐かしく思い出していた。
琴の音に涙をそへて流すかな
たえなましかばと思ふあはれに
その時に西行が詠んだ歌を、この二十年、小侍従は幾度思い返しては涙し、また潰れそうな己の支えとしてきたことか。
西行が佐藤義清という俗名で、北面の武士として生きていた若き日々、文武に優れ、眉目秀麗な若武者は当時、女房たちの憧れの的であった。それが何を思ったか,突然出家した。小侍従がお仕えした太皇太后多子様にも歌の才を可愛がられて、時々立ち寄られていたことなど懐かしい。
横に座った西行に小侍従は驚いたというより呆気にとられながらも、西行の変わらぬ身の軽さを思い出した。気の向くままに旅をし、突然現れてはまた何処となく去っていく。乞食僧のようでありながら、南都北嶺の高僧たちに一目置かれている。武道は言うまでもなく、歌道においては都の貴人たちも尊敬を深く抱いている男。
いま、その西行が久しぶりに傍にいる。小侍従は熱い思いが身から湧き出てくるのを覚え恥じ入った。日焼けした彫りの深い面長の横顔は、歳こそ感じるが昔と同じように厳しくも美しい面影が漂っている。
「西行さまこそお元気なご様子。今も旅にお暮しでしょうか」
「変わらぬ乞食坊主じゃて。あちこち物乞いしながら生かされておる。おお美しい、白百合の花か。よい香りじゃ。そうか、忠度殿がのう。彼はまことを持つ男じゃが、歌詠みとしても見事。今もって美しく歌才溢れる小侍従殿。男どもに今も愛されるのは当たり前じゃ」
西行はカラカラと笑った。
「しかしなあ、熱い思いも時が立てば薄らぎ、やがては消えゆくものを、さすが忠度殿であることよ。拙僧も嬉しくなり申した」
月は西行の微笑んだ横顔を照らし、白百合の花はすっとうなじを伸ばし、闇に香り高く浮かびあがる。一心に西行の旅の話をさまざまに聞きながら、もし逢えたら尋ねようと思っていたことを思い出した。
「西行さま、ずっと教えていただきたかったことがあるのですが」
「何なりとお尋ねくだされ。今宵は初めて邪魔が入らずお話しできる機会じゃて」
「西行さまのお歌には月や花が沢山詠われていらっしゃいますが、その月や花は西行さまにとってどのような世界なのでしょう」
「そういえば一年ほど前か、定家殿にも同じことを訊かれましたな。まだ一二歳、お若いのにまこと熱心。御父上の俊成殿もいたく喜んでおられましたな。拙僧にとって月や花とは、なに、み仏でござるよ。いや、そもそも歌とは拙僧にとって仏の道でござる。一首作っては己を観る。己を省みては絶望しまた歌を作る。その繰り返しでござるよ」
その答えに小侍従は深く頷いた。「おぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり」と仰せられた後鳥羽院のお言葉が思い出された。西行が若き日より比叡を尋ね、吉野や熊野はおろか奥州や西国まで行脚し、近年は荒ぶる讃岐院の御霊を鎮めるべく、四国を巡っていることを知っていた。折々に歌を詠みながら。しかし、もう一つ、どうしても訊きたいことがあった。
「西行さまはなぜ御出家なされたのですか」
これは西行が出家した当時から誰しもが憶測し噂しあったことであった。しかし、高貴な女院との噂まであり、事の真偽を訊くのはあまりに憚られていた。
「拙僧の出家について色んな噂が立ったらしいですな。中には高貴な女院との色恋とか」
西行は笑った。
「しかし、嘘はたやすく信じるが、まことを話しても人は信じないのが世の常。噂話などにかまけている暇はない。しかし、いま貴女ならお話しする甲斐があるというもの。確かに拙僧は、家にも恵まれ北面の武士という名誉も得ました。しかし、それに何の意味がありましょうや。北面の武士となり、さらに宮中の様子を知るに、民を忘れ道を忘れ、乱行極まる宮中にみ仏はいずこや。拙僧への色恋沙汰の噂もそんな乱行にうつつを抜かす方々の思い付きにすぎません。そして拙僧は何よりみ仏と歌の道に魅せられたのです。まあ生来我儘なのですな」
西行の明るい笑い声と話に小侍従は胸のつかえが降りた心地がした。
小侍従には西行との秘め事があった。重い病に臥せっていた日々に、西行が自ら薬草を調合し煎じて、飲ませてくれたこと。ある夜のこと、焼けるような身を、忍んできた西行が一夜誦経塗香してくれたこと。
(必ずお治し申す。安んじ召されよ)
と耳元で囁く言葉。うなされ苦しみながら小侍従は朧気に西行の心を感じ涙したこと。快方に向かったある晴れ渡った朝、前栽から、眩しく輝く雪を盆に盛ってきて口に含ませてくれたこと。その美味しかったこと。穢れを拭うように、体の中の隅々に清らかな雪が流れていくのを覚えたこと。小侍従の胸には幾人かの男の愛にも増して、西行との、ただそれだけのことが深く刻まれたのだった。
ゆっくり、白百合の香りに包まれながら、静かに二人の話は続いた。小侍従は、このひと時の意味を思った。このまま時が止まってくれたらという、先刻思い出した言葉を反芻しながら。
満月は西に傾きかけながら、平舞台や島を、海を、まるで化粧をするかのように白く照らしていた。西行とのこの時も、朝には儚く消えるだろう。しかし、この幾時かを得て、小侍従は生きていてよかったと心から思った。
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