2019-03-02 カミュ『ペスト』10 共感 304「人間のあらゆる不幸は、彼らが明瞭な言葉を話さないところから来るのだということを、僕は悟った」 タル― 明瞭な言葉、すなわち明瞭な思考であるが、この点は日本人は困難であろう。「空気を読め」というばかばかしさの溢れた国である。結果として自分の意思(あればの話だが)は反映されない組織となる。ひところ「ディベート」なるものが流行った。しかし、それは議論に勝つだけが目的となった。何分勝ち負けしか頭にない思考とはえげつない。議論を深化させるのではなく、言葉尻をいかに取り上げて攻撃するかとか「知識」のある無しで決着をつけるとか、おおよそ無意味で有害な教育を出世したい教員連中がやっていたものだ。まあ有害でしかない教員がやってることだからすべて有害であるが。フランス語は明晰な言語であると聞く。ご存じのかたがいらっしゃればご教授願いたい。 「万一、そういいながら、自分自身が天災になるようなことがあったとしても、少なくとも僕は自分でそれに同意してはいない。つまり、罪なき殺害者たらんことを努めているのだ。どうだい、たいした野心ではないだろう」 天災とは繰り返すが「悪」の避けられないことであり、「悪」のはびこる国家,社会、組織においては、そこに属するだけで「悪」の加担者となりうる。タル―はそれを指摘し、罪なき殺害者という自己規定を行う。タル―は殺人無き国家を目指し戦ったのだが、改革なき国家に属しているというだけで責任を痛感しているのである。アンナ・ハーレントを思い出す。 「アイヒマンは、ただ命令に従っただけだと弁明した。彼は、考えることをせず、ただ忠実に命令を実行した。そこには動機も善悪もない。思考をやめたとき、人間はいとも簡単に残虐な行為を行う。思考をやめたものは人間であることを拒絶したものだ。私が望むのは考えることで人間が強くなることだ」 アンナ特別講義悪の凡庸さ・・・アイヒマンをさす。 P304「そういうわけで、僕は、災害を限定するように、あらゆる場合に犠牲者の側に立つことに決めたのだ。彼らの中にいれば、僕はともかく捜し求めることができるわけだーどうすれば第三の範疇に、つまり、心の平和に到達できるかということをね」 タル―はリウーを見出し、始め懐疑的まなざしを向けていたが、リウーの二心のない献身に魅了されていき、ここで、つまり作品の終わりの部分でこのように長い告白をリウーに吐露するのである。 さて、ここで「心の平和」という第三の在り方をタル―は出してきた。教会の教えでもなく、「ペスト」との闘いでもなく、おそらく作者カミュの願いでもあった「心の平和」である。 心の平和に到達するためにとるべき道について、タル―には何かはっきりした考えがあるのか、と(リウーは)尋ねた。 「あるね。共感ということだ」 たった一言で明快に答えるタル―。思うに共感とは人間の人間であるための極めて重要な感性である。これは理屈ではない。人間らしさの全てである。溺れそうになった子どもがいたら理屈抜きに助ける心性である。苦しんでいる人たちがいたら、その苦しみを和らげてやりたい心性である。宗教の教理や「道徳」で教え込まれた理屈からではない。まさしく宮澤賢治や大杉栄たちの心性に重なるのである。大逆罪で死刑判決を受けた金子文子や朴烈・・・そのように生きた人たちは有名無名実は結構いる。 まことに、共感力が認識の基礎に不可欠である。タル―は自分の活動の拠り所として共感を挙げた。被害者や弱者へのまなざしである。作中、司祭であるパヌルーが二度説教を行うが彼もまた空疎な観念的教義から離れてリウーやタル―の活動に身を挺していく。それは「患者」への共感であった。