pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

カミュ『ペスト』11寄り添う事


P344
彼(タル―)が相変わらず彼女の姿を見つめているのをリウー夫人は見ることができた。彼女は彼の方へ身をかがめ、長枕を直してやり、それから身を起こしながら、ぬれてもつれた髪の毛の上にちょっとその手を置いた。するとそのとき、彼女の耳に、遠くから響いてくる、かき消されたような声が、ありがとうといい、いまこそすべてはよいのだというのが聞こえた。

タル―の臨終の場面の描写であるが、このリウーの母とタル―の場面において明瞭に浮かび上がってくるのは、この母親像である。
あらゆる出来事にたじろがず、受容し、かつ愛のあふれた母親はマリアを想起させるに十分の描写となっている。
孤独な闘いを続け、リウーと出会い、初めて友情を確認できたタル―はペスト終焉の時期に罹患し死ぬ。


「ありがとうといい、いまこそすべてはよいのだというのが聞こえた」


これはP302のタル―の述懐を思い出させる。
「われわれはみんなペストの中にいるのだと。今後はもうペスト患者にならないように、なすべきことをなさねばならぬのだ。それだけがただ一つ心の平和を、あるいはそれがえられなければ恥ずかしからぬ死を、期待させてくれるものなのだ」

タル―は自分に寄り添うリウーの母親のまえで心の平和と恥ずかしからぬ死を得たのだ。

「寄り添う」ということは、ある意味、治療よりも重要な
意味を持つ。

前文で「共感」というキーワードを得たが、それは勿論個人の心の充足にとどまらない。他者と自分の心の重なりを意味するのだから、おそらくリウーの母親はおのずと心の平和を獲得していて、それがタル―に共感を覚えさせたのだろう。


いまも、「患者」の脇に寄り添っている人たちがいる。