pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

堀辰雄の『詩』

雨上がりのつかの間の散歩

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   詩        堀辰雄

僕は歩いてゐた
風のなかを

風は僕の皮膚にしみこむ

この皮膚の下には骨のヴァィオリンがあるといふのに
風が不意にそれを
鳴らしはせぬか

硝子の破れてゐる窓
僕の蝕齒よ
夜になるとお前のなかに
洋燈がともり
ぢっと聞いてゐると
皿やナイフの音がしてくる


僕の骨にとまってゐる
小鳥よ 肺結核


おまへが嘴で突つくから
僕の痰には血がまじる


おまへが羽ばたくと
僕は咳をする


おまへを眠らせるために
僕は吸入器をかけよう



苦痛をごまかすために
僕は死にからかふ
犬にでもからかふやうに


死は僕に嚙みついて
彼の頭文字を入墨しようと
歯を僕の前にむき出す



これは執筆年代未詳ながら昭和2年3月の同人誌『驢馬』に掲載されたので、それ以前の作者闘病を描いた詩である。すなわち堀22歳以前。その年には芥川龍之介が自殺しているから、堀は芥川全集の編集にも加わり、絶望の中必死にその作業に集中した。従って、このような詩を作る余裕などなかった。という事は、この詩は堀の初めの肋膜炎発症の大正12年以後からの間に書かれた。

初めの発病は大正12年。その年は関東大震災が起き、堀は水死体の無数に浮かぶ隅田川を泳いだり母を探して疲労困憊した結果であろうとみられている。

母の死、文学の師芥川龍之介の死、そして自身の不治の病。そして後年に愛弟子の立原道造の死。

当時はそんな身近な死を多く見ただろうが、それらを含めての堀の文学である。

そう見ると、上掲の『詩』における堀の死への文学的な向き合い方は、自然小説家やら他の詩人やらのそれとは大きく異なる。

対象化された死を音楽のように絵画のように描く。それは同時代的な西欧詩人たちの表現を咀嚼していたから可能だったのだが、20歳前後の若者の死を描く表現と読むなら驚くべきことである。堀自身はこれらの詩について若気の至り的な弁解をしているが、こんな表現は他の誰もが出来ないものであった。彼の小説を読むと分かるが、彼の文章の本質は散文詩なのだ。


この詩篇は、立原道造が生前に密かに丹念に筆写し綴じたものだったという。それを友人の画家の深澤紅子のアトリエに故意に忘れていったものだと堀辰雄は深澤に教えられた。堀は深澤に挿画を依頼して立原の墓前に供えたという。
私の好きなエピソードの一つである。



写真 昨年信濃追分駅から
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