pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

タコのいのち



「タコの最期は涙なくしては語れないほどに尊い」稲垣 栄洋 : 静岡大学農学部教授

東洋経済稲垣 栄洋 : 静岡大学農学部教授

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ネットニュースもつくづく嫌になるほど酷い中で、今朝は美しい記事を拝読した。お読みいだだければと思う。

タコの最期については知っていたが、稲垣さんの文章は知識を超えて訴えかける。


もちろんタコだけではない。
有名な鮭の最期などいのち有るもの全てそうであるのだが、このタコの姿も壮絶にして厳粛である。


ここから、巴琴は人間の醜悪さと比較するのだろうと、推量されるのも承知。池袋暴走事故を起こし母子の命を奪った飯塚幸三元院長(未だ敬称を使うマスコミ)の醜悪さはこの国の縮図としても典型である。出世と保身の塊と化した飯塚と忖度警察。未だ捜査中?

その、母子を奪われた松永さんの悲嘆と無念は察するに余りある。


産む、産ませる、産まれる。

男は女に産ませるのだが、女の産む事に対しては女に比して遥かに気楽なものである。生まれてくる子の姿に感動を与えられるだけだ。産みの苦しみは女にしか体験出来ない。しかし、生まれてくる子に親は全てを尽くし守り育てる。

当たり前だが子を持つとはそういう事だ。
子を持つ有り難さである。

以前書いた文章の中から方丈記に関してのものを引用する。鴨長明の大飢饉での都の記事。

「たいそうあはれなこともあった。別れたり捨てたりすることのできない妻・夫らを持っている者は、相手への愛情がまさって情の深い者が必ず先立って死んだ。その理由は、わが身は次にして、相手をいたわしく思っている間に、たまに得た貴重な食糧をも、相手に譲ってしまうからである。だから、親子においては当然のことながら、親が先だって死んでいった。また、母の命が尽きたことを知らずに、幼い子がなお乳を吸いながら臥している姿などもあった」 (巴琴訳)

私には、上掲の母タコの文章に重なる。母タコの場合は卵から孵った子を見届けながら静かに息絶えていく。卵を産んでから孵るまで食事をせずひたすら甲斐甲斐しく卵を守り続けての最期である。壮絶ながら極美。

いのちとは祈りでしかない。
ならば祈りこそが美か。




我が家の蓮が昨日から花を開かせている。蕾に熱を蓄えて両手を開くように咲く蓮も花も全てまた祈りの形。
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