pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

式子内親王

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近頃ようやく歩き出した。
風のある夕方にはやや涼しく感じられるようになったからだ。したがって歩く範囲は団地内だが、結構な距離がある。

今日の夕方近く、こちらはスコールとなった。沛然たる驟雨…と形容するだけでは物足りない凄まじい土砂降りであったが、短時間で止んで晴れ間から夕陽が漏れ出した。

これは歩くに限る。

今まで何度も載せた場所て恐縮だが、今回のものは夕霧濃く立ち昇る景で、私の最も好きなシーンである。

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おしこめて秋のあはれに沈むかな
       麓の里の夕霧の底 

            式子内親王


私の最も好きな和歌の一つが否応なしに浮かぶ景なのだ。

この歌も何度か拙文に取り上げたが、今、ようやく歌の内実に向き合う事ができるかも知れないという自分への期待が生まれつつある。


「私の考えでは、日本の詩歌のなかでもっとも哲学的な内容を秘めたこの歌は、存在するすべてのものを包み込む霧の風景を「あはれ」として捉える。この「あはれ」は鴫たつ沢の「あはれ」と同じものであり、同時に寂蓮の詠う霧からの出現の風景を逆手にとって、すべてが霧になかに沈み込む風景を詠う。もちろん、霧はやがて晴れる。その時は、霧のなかから、麓の里の風景が出現するはずなのだが、いまは霧にすべてが沈んでいる。風景の出現を否定的に捉えた傑作である。」          
      『西行の風景』より引用。

桑子氏はこの歌の「哲学的内容」に踏み込む描写はされてないが、その前段の「三夕の歌」解釈に於いておおよその意味を説かれていらっしゃった。それは哲学でもあるが仏教哲学と言ってよい内容であった。その文脈で、上記の引用文が続く訳だが、さて、それは哲学的内容としては「存在論」である。

西行らの依って立つ真言密教に於いて存在とは「空」である。厳密には「虚空」。つまり「無」を映す世界である。然らば無とは何ぞやと論理は何処までも入り組んでいく論理的な「罠」が言葉には内蔵されていて、その罠を回避するには直覚に頼るしか方法はない。つまり、桑子氏の言わんとする「哲学的内容」とはそういう事で、だから氏はそこに踏み込む事を回避なさったと私は見る。


そうして式子内親王の歌を読むと、霧が全ての存在を包み込み、風景の出現を否定的に捉えた歌と解釈なさる。三夕の歌を踏まえ…それだけでも恐ろしいくらいの歌なのだが、彼女がこの歌を詠もうとした時に彼女の眼前に心に浮かんだ世界とはどんなものだったか。

存在の全てを包む…には同感であるが、では「霧」とは何か。


「霧」とは仏教に言う慈悲であると私は見る。
「秋のあはれ」には源氏物語以後に深化させられた自然観賞の美意識に重ねて、桑子氏のご指摘の仏教的「虚空」を映し出す。

「おしこめて」という独創的な語彙に式子内親王はおそらく万感を込めている。それは和歌の道を象徴する存在となった「三夕の歌」の詠み人たちへの心からの敬愛の発露として私は読む。全ての存在を「おしこめて」しかし、その存在とは世俗ながら同時に彼女が没頭した和歌の道であり仏の道であったろう。それは即ち西行を頂点とした平安和歌の世界ではないか。

式子内親王は心から彼ら3人の詠み人を敬愛した。それがこの歌の第一句であろうと思う。西行たちが和歌に仏の教えを詠み込んだ事を仏に仕える彼女は熟知していた。


「霧」はこの歌では「夕霧」である。夕陽を受けた霧…例えようもなく美しい「霧」を彼女は用意したのだ。大日如来の慈悲を現すに相応しい「夕霧」であろう。

その「底」は現実界を含めて、人間という卑小にして、しかし敬愛すべき歌人たちの世界であろう。


と、まぁ、相変わらずの私の戯れ言である。
散歩中にふと浮かんだ事をちょっと纏めてみた。




写真 散歩中に見た景。霧の下には古い集落がある。
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