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「これで十分」
ナナオサカキ
足 に 土
手 に 斧
目 に 花
耳 に 鳥
鼻 に 茸
口に ほほえみ
胸 に 歌
肌 に 汗
心 に 風
竹中労
風はね、おしめの干してある裏窓を吹くんですよ。水は、ドブの中を流れるんです。窮民社会では、香港の木屋区、バンコクのクロントイ、マニラなんかも、とりわけてサンターナとかパコとかの下町、そのおしめの窓を吹く風、ドブ板の下を流れる水を求めて、そういうルポルタージュが書きたかったんです。
以上、ナナオサカキと竹中労の「ことば」だ。
ナナオの自然没入の態度は見事に一貫して日本人離れしていて、彼の詩集の序文を書いたゲーリー・スナイダーは、”Break the Mirror” (アメリカで出版されたななおの詩集)初版序文のなかで「ななおは、日本から現れた最初の真にコスモポリタンな詩人の一人である」と評している。ゲーリー・スナイダーが金子光晴や宮澤賢治を知っていたか理解していたかは分からないが「真にコスモポリタン」な人間と評価されたことはナナオにとって当たり前のことだったに違いない。
一方の竹中労はナナオの真逆に日本の社会の中にどっぷりと浸りきってルポライターの名をほしいままにした。それはナナオのように徹底したもので、上記の竹中の言葉とナナオの詩には本質的な共通感覚がある。「風はね、おしめの干してある裏窓を吹くんですよ。水は、ドブの中を流れるんです」これは竹中の行動した世界だが金子光晴の「寂しさの歌」に共通の感覚だ。詩人だった。だから「歌謡」に惚れた。
「寂しさの歌」 金子光晴
【 口紅にのこるにがさ、粉黛のやつれ。――その寂しさの奥に僕はきく。
衰えはやい女の宿命のくらさから、きこえてくる常念仏を。
……鼻紙に包んだ一にぎりの黒髪。――その髪でつないだ太い毛づな。
この寂しさをふしづけた「吉原筏。」】 抜粋
と、女郎を描いた。
その詩の序にニーチェが引用されている。
国家はすべての冷酷な怪物のうち、もっとも冷酷なものとおもはれる。
それは冷たい顔で欺く。欺瞞はその口から這ひ出る。「我国家は民衆である。」と。
ニーチェ 『ツァラトゥストラはかく語る。』
反骨放浪自由の精神である。
彷徨い見つめていった「人間」である。
定点からは見えない「人間」である。
ナナオは土の上で斃れ死んだ。
光晴は炬燵に座りながら死んだ。
竹中は病院で癌死した。
最期まで自分を貫いた生き方だった。
金子光晴『絶望の精神史』より。
「人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物なのではないか、とさえおもわれてくる」
的確である。
放浪の3人。
自然の中に放浪したナナオは社会性はなかったのか?
いや、ありすぎるから自然に没入した。
「遺言には、「いかなるコマーシャルにも詩の使用不可」という言葉が明記されているという」
「これで十分」・・・そうありたい。
「これで十分」ナナオサカキ
http://gramali.blogspot.com/2010/02/blog-post.html
「釜ケ崎-旅の宿りの長いまち」寺島珠雄 竹中労
http://honnomori.jpn.org/syomei/2-ka/kama-tabi-1.html
「寂しさの歌」 金子光晴
http://www.haizara.net/~shimirin/on/akiko_03/poem_hyo.php?p=14
写真 Pakinに愛された猫達。猫達が愛したPakinは写ってません^_^