pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

「秋日」  耿湋

思い出そうにも何とも思い浮かばない記憶。
櫛の歯が欠けたようになどと生易しい姿ではない。認知症ではないらしい。ただの加齢による物忘れらしい。特に固有名詞が悲惨である。また時系列的記憶も危ない。


時に腹立たしく時に諦めながら老いて行くさ。


以下の『秋日』という漢詩、これも思い出そうとして忘れていたものだ。今バスでこれを書いているのは、それが不意に浮かんできたからだ。記憶とは全く不思議でままならぬものだが、忘れ物を思い出したように嬉しいことでもある。

これは私の好きな漢詩の一つである。
高校の漢文教科書に出てたかな…もう不確かだ。

中国の広大無辺の大地の上にある貧村、時代は中唐。その乾いた土の上にしゃがみ込んで土壁に凭れている老人。夕日が土壁も道も赤く染め上げる中、老人は憂いに沈み、ただ黙して座すのみ。
どのような憂いか、その憂いは他者を拒絶している。拒絶というよりもはや無関心なのかも知れない。そんな老人もまた夕日の照り返しを存分に浴びていた。

そんなイメージを抱いたのだった。老人なんて言葉はない。自然に老人を連想したに過ぎない。しかし、私はそのイメージに強く打たれたのだった。



     「秋日」      耿湋

 
返照入閭巷  返照閭巷に入る
憂來誰共語  憂い来たりて誰か共に語らん
古道少人行  古道人の行くことまれに
秋風動禾黍  秋風禾黍を動かす



返照 へんしょう 雲に照り返す光
閭巷 りょこう  閭は村の門 巷は道
憂來 うれい来たりて
誰共語 たれとともにかかたらん 反語

古道 こどう 鄙びた古い道
少人行 ひといくことまれに 人影も稀に
動禾黍 かしょをうごかす 禾黍 稲と黍



後になって知ったが、この詩には国の衰亡への耿湋の怒りや嘆きが隠されているという説がある。古道とはいにしえの聖人の教えの道である。禾黍も、昔の詩の引用であるという。
そんな表現方法はもちろんあり得る。国破れて杜甫悲愁に暮れたその後代に耿湋は
このような詩を生んだ。先に耿湋の怒りや嘆きと書いたが、間違いかも知れない。

秋の夕暮れ、静寂、黄昏に輝く一瞬。
老人は生きているかさえ定かではない。

  


     (相馬行きの直行便の中で)


写真 『秋日』には及ぶべくもない、ありふれた夕暮れ。
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