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鹿 村野四郎
鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして
実を言うと私は村野四郎の詩は好きになれなかった。「さんたんたる鮟鱇」は近代初頭の洋画家高橋由一の「鮭」の翻案ではないかと見てしまう。
さんたんたる鮟鱇
村野四郎
顎を むざんに引っかけられ
逆さに吊りさげられた
うすい膜の中の
くったりした死
これは いかなるもののなれの果だ
見なれない手が寄ってきて
切りさいなみ 削りとり
だんだん稀薄になっていく この実在
しまいには うすい膜まで切り去られ
もう 鮟鱇はどこにも無い
惨劇は終っている
なんにも残らない廂から
まだ ぶら下っているのは
大きく曲った鉄の鉤だけだ
たとえ人間の比喩であろうが、「実在」という言葉を挿入してしまった時点で理屈になってしまった。いくら凄惨な姿を描こうが「実在」は所詮観念の世界であることを表したのだと私は読む。そう彼はただ理屈っぽい。底が浅い。
しかし、この『鹿』は好きだ。
その鹿は、杭に縛られて目の前に銃口を突き付けられている捕虜であるのか。
「いま生と死が入れかわろうとする一瞬のあわいに、眼前の死の谷へ射ちおとされようとする瞬間に、夕陽をうけてきらめくあざやかな時間! なんのための時間のきらめきなのか。空しさそのものの価値のようなものだ。この一篇は私どもの生にひそむ一回的な最終の歎息を、自分の呼吸で吸いあげるかのように組立てられている。」
伊藤信吉「解説」
「高名」な伊藤信吉によるものだが本当か。この「評価」に対し村野四郎は「この批評より深く、かつ精緻な解明はとうてい不可能であろう」と絶賛したらしいが、互いに褒め称えるという事を平気でやったそうだ。気持ち悪いね。おっさん二人でヨイショし合うの図。
この伊藤信吉の解説通りならなんとつまらぬ詩かと思う。「空しさそのものの価値」などが伊藤や村野にあったとしたらそれは観念の貧弱だ。いや観念ごっこだ。むなしさとはそんな半端なものではない。むなしさを知らぬ年寄りとは…
事ほど左様に日本の古井戸の中は腐っているのである。
ところがだ。
作品は世に出た瞬間に独り歩きすることがある。
読みは自由という観点から言えば、この『鹿』の鹿は目の前の宿命に対峙した姿として読むのも可能だ。
そう読んだときに私にはその鹿がたとえようもなく美しい存在ー命ーとして見えてくるのだ。
「けれども 彼にどうすることが出来ただろう」
どうすることもできないとしても、それでよい。正面に向き合えばだ。そのとき、鹿の眼差しはこちらを真っすぐに射抜くのである。そんな鹿の眼差しの美しさを私は感じたい。
それは現実世界の生きた鹿でなければならない。観念の遊びには存在しない。
生きている鹿の眼差しに向き合え。
生きものの眼差しに向き合え。
命はそんなに軽いものではないのだと知れ。
この詩は小学校で採用されているそうだが、小学生がそう読んでくれるなら嬉しい。理解した!ではなく、そう感じた!が大事。しかし無理な話だ。子どもの口を無理やり広げて無意味な説明をただ押し込むのが関の山。無残。
黄金の鹿
巴琴
村野史郎の「鹿」のような短歌を作りたいと
彼女は俯いたままつぶやいた
それだけで
彼女は自分が黄金の鹿に化身したのだという事に気付いていない
カフェの窓から黄金の夕日が差し込んでいる
時間は彼女のつぶやきを黄昏に包んでいる
何十年もかけて訪れたその瞬間に
彼女は闇にかがやく黄金の鹿に化身した
・動画 暗い港のブルース