pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

漢文無用論について

 

漢文無用論には漢詩も入るのであるが、そもそも漢文と括っているので便宜上漢文と呼ぶ。

私の高校には漢文が独立して存在したが、現在は古典という括りの中に細々と息づいている。数十年の間の教育課程の変遷の結果であるが、文科省が漢文軽視を加速したわけは、例えば音楽でかつて文部省唱歌として私たち世代以上が馴染んできた歌が消えて現代のはやり歌に置き換えられた事と軌を一にする。

つまり、分かりやすい、ウケ安い学習内容への転換であった。中身は軽くなり、すぐ捨てられるポップスなど。

その分かりやすいというキーワードを押さえれば戦後国語教育の質的転換が見えてくる。

ただし、ではその教科書が無意味かと言えば経験的には面白かった。高校時代、教科書を手にして一週間もかからずに国語だけは読み切ったが、もちろん面白そうな文章だけを拾い読みしたのである。でもって大半の授業中は寝て過ごした。

そんな中に中島敦の『山月記』があった。
所謂変身譚であるが、虎に心ならずも変身してしまった李徴のその切々たる語りに深く感銘を受けた。鮮やかであった。その作品は中国の伝奇古典から翻案したものだが、現代小説として堂々たる風格を備えていた。

末尾、


偶因狂疾成殊類 
(偶々凶疾によりて殊類となる)
災患相仍不可逃
(災患相まって逃るべからず)
今日爪牙誰敢敵
(今己の爪牙にたれか敢えて敵せん)
当時声跡共相高
(当時の声跡共にあい高し)
我為異物蓬茅下
(我異物となりて蓬茅の下)
君已乗軺気勢豪
(君は已に軺に乗りて気勢豪なり)
此夕溪山対明月
(この夕べ渓山明月に対し)
不成長嘯但成噑
(長嘯を成さず但だ嘷を成すのみ)


自分はたまたま禍々しい狂疾によって人間ではなくなってしまった。自分の名誉欲や運命の狂いによってもはや元の人間に戻る事はできない。 

今、自分の爪や牙に敵する者は居ない(しかしそれが何になろう)
昔、君と僕とは共に才の誉れを得ていたが、今や自分は草むらの陰に生き、君は身分の高い車に乗っていて、気勢も強い。自分はこの夕べ、渓山明月に対して詩を詠ずる事もできずに獣の咆哮をなすだけである。

こんな漢詩が挿入されている。
脚注を頼りに読み進めた。

「分らぬ。全く何事も我々には判わからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」

「一体、獣でも人間でも、もとは何か他ほかのものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀かなしく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ」

以上、長々と青空文庫から引用したが、作品中、特にこの2つの文章に瞠目したのだった。
これは虎となった李徴の嘗ての友、袁傪への告白であるが、普遍的な人間洞察に満ちた言葉として未熟な高校生の私の胸を打ったのだった。

堂々たる美しい文語体の代表的作品である。
朗読にふさわしい。
朗読にふさわしいと言うことは、山月記は小説でありながら詩であるという事だ。

男子三日会わざれば刮目して見よ、という言葉がある。三国志演義呂蒙の言葉だが、私など60数年生きてもボンクラであるが、三国志演義司馬遷史記も諸々の漢文書も言葉の宝庫である。海である。そのひと滴を掬ったに過ぎない私だが、『山月記』の上記文章は常に問いかけてくる力を持つ。お前の本来は何かと。60年経っても変わらぬボンクラではあるが、このボンクラの本然は何か。分からぬ。遠い夢の中に忘れてきた自分がいるのは確かであるが、老いてそんな自分の始原に遡行するのはまた愉しい。『山月記』一つで有り余る愉悦を覚える。

漢文はまた宝である。日本人の思想を鍛えてくれた。
漢詩もまた宝である。日本人美意識を鍛えてくれた。
原文で当時の発音で読める人が羨ましい。

いや、本題は漢文無用論である。

 

漢文は骨格である。
和文は血肉である。
現代文は皮である。
然るに皮だけだと・・・風船か・・・

 

無用ならばそれで良し。
何事も本人の欲求に従うものである。

安倍総理は文系無用を唱えた。彼の欲求は那辺に有りや。
一国の総理が唱えたのだから意味深であろう。云々をでんでんと読むのも意味深であろう。
天皇、皇后両陛下には末永くお健やかであらせられますことを願っていません」
と御前に於いて朗読したのも意味深かも知れない。
「已やむ」を読めなかった・・・やみません、が正しいのだが・・・

しかし、総理大臣ならば誤読も、いや、裏が有るのでは?と聞いて貰える(あり得ないが)が一般人はやはり知らぬもまた恥をかく。総理大臣は呂蒙ならぬ阿蒙(無学だった頃の呂蒙を笑った表現。阿とは魯迅の『阿Q正伝』の阿で、おバカの意味)であろうはずはない。

文系無用まで出てくる日本であるから、漢文無用は当たり前の如く現れる。そのうち古文も無用、文学作品も無用となるかも知れない。

 

それはそれで良し。已むなし・・・

 

ただ、何でも本来なら愉しめるものを嫌うとか無用として行く先に何があるかは考えた方が良い。現代は何でも「嫌い!」が先行する社会であり、それを危惧する。
片端から嫌いで遠ざけ排除した先に何があるか。

愉しみは多い方が良いに決まっているのである。

私は阿蒙より無学であるから、漢文は今からでも愉しみ尽きることはない。中島敦山月記漢詩も入る文語体なので、教科書には今も掲載されている。

教科書に掲載と言うことは…おい、下手な教え方して台無しにするなよな。

私は国語教科書無用論である。

なに?
山月記を教科書で愉しんだくせにだって?

そう。
しかし、あの国語担任は教科書がなくても山月記を読ませたに違いない。彼は毎月一冊岩波文庫を強制的に買わせて読ませ、各5枚以上の感想文を書かせたくらいだから。
読書の愉しみと感想文の苦痛を与えてくれたのだ。多謝。

 

写真 菩提寺前の掲示板に貼られていたもの。坊主はクソ坊主。書くことは一人前。ん?巴琴も同類?いや私は今も半人前以下です。

https://smcb.jp/resize/w/800/h/800/images/uploads/d5d51ca2-6de1-4912-9fad-854c8b90662d.png