pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

神戸市立東須磨小学校事件

教育は国家の基盤である。
百年の大計とはよく言ったものだ。

 

ようやく加害者教師4人が表に出始めたと言ってもそれぞれ紙一枚の反省文。
校長も前校長も同質のレベルだが、神戸市が特異なのは人事で校長の意にそう教員を引っ張る権限が与えられているという事だ。神戸方式と呼ぶらしい。


猿山のボス猿は実力によって群れを支配するが、それは群れの平和と安全を守る崇高な目的を持つ。


翻って人間の猿山のボス猿は…猿のほうが余程人間よりマトモなのである。



校長の権限強化は既に50年以上前から文科省によって画策実行に移されているが、これは文科省を頂点とする学校ヒエラルキーの強化で、目的は公立を自民党の私物化に寄与するという事。

 

以前、教員はその地位は独立性を重視され、給与体系まできっちり他の公務員と区別されていた。
実態は別として、それなりの権限と職務への誇りは存在していた。

自民党は一方でマスコミを使い労組叩きで労組を衰弱させ、一方で権力機関としての位置づけを強化し、当初の目的は日の丸君が代の強制的実施。卒業式などの行事を生徒主体から校長主体へと変えながら、校長に諂う教員を増やして行った。その結果、法改悪で職員会議はただの諮問機関と化し教員の主体性は圧殺されて行った。 

着々と公立学校を自民党化し、モノ言わぬ教員モノ言えぬ教員の職場となって行った。
結果、公立の中身はボロボロである。学習内容?
無残であるしかありようがない。

東須磨小の問題はだから全国の問題である。似たりよったりの実態がかなりの数あるだろう。 

ヒエラルキーの頂点気取りの校長が自分に諂う教員を抱きこんで学校を支配する。それだけでも異常、いやもはや不気味だ。気持ち悪すぎて吐き気を催す。

 

私の巡り歩いた高校でさえ(でさえと言うと差別的だが、義務教育学校は更に程度が低かった)、教員間の虐めは深刻であった。教員の自殺の大半はそれが原因である。私の身近の教員でさえ4人自殺している。

 

私のような者は逆にターゲットになりにくい。校長を机を叩いて怒鳴る教員に表立って虐めを仕掛けるのはいなかったが、最後の勤務先の定時制高校で、教員をレスリングの絞め技を掛けて虐めるボスがいた。気に入らぬ教員を体育館のマットの上に呼び出し訓練もどきで技をかける。失神寸前で技を解く。レスリング界でも有名な男だったが、私はこの男の悪事(修学旅行代金ピンハネ問題)を追求し、旅行会社、県担当、可能な限り調べ上げていた。校長にももちろん伝えた。校長は三猿になった。生徒などどうでも良いのが校長である。つまり人間のクズだった。
その男定年を繰り上げて退職した。バレたら退職金も出ないからだろう。卒業式後に私が職員室に戻ると誰も居ない。私の机の正面に、別棟の部屋が見えたが、そこに教員らがこちらをうかがっている。バカ共がとつくづく思った。
隣室の休憩室から彼が出てきた。
私の側に立って威圧的に私を見下ろした。

「腹が出てきたな」

私が一言ぶつけると彼は静かに出ていった。そこで喧嘩沙汰になれば不味いのは当たり前。私を手に掛ければ彼は終わる。勝負師の彼にはそれくらいの理解力はあった。勘の鋭さもあった。

対面の部屋から眺めていた連中は暫くして何事もなかったように戻ってきた。もとより私は連中を全く相手にしてなかった。品性下劣無知無責任幼稚。教頭は何事も起きず安堵していた。

こんな事を思い出す東須磨小の事件である。しかしその学校で自殺者は居るか知らぬ。
東須磨小の問題関係の連中が根っからのクズなのは明らかであるが、問題の本質はヒエラルキー強化の行き過ぎであり、教員採用試験、管理職試験の問題であり、学校支配の本質である。

個人非難は当然だが、以上の学校の実態を深く抉らなければ何も見えてこない。

おそらく、加害者4人を断罪して幕引きだろう。つまり、今後も何も変わらないのである。可哀想な子どもたち。

この数十年間で学校が、どれほど変質したことか。私に言わせればもはや収容所に過ぎない。害あって利無し。

そうそう、東須磨小の校長共、誰かに似てないか。
そう、内閣総理大臣
俺様国家、俺様学校。哀れなのは何も知らぬ国民、保護者、そして子どもたち。
構図がそのまま当て嵌まる。それが日本です。未来?ない。結論です。