pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

『山の女――秋山郷・焼畑の谷に生きた女の一生』 山田ハルエ 述/志村俊司 編

『山の女――秋山郷焼畑の谷に生きた女の一生
             山田ハルエ 述/志村俊司 編

 

「日本三大秘境の一つに数えられていたかつての秋山郷で、今では想像もつかない貧しさと飢えに耐えて必死に生きた一人の女のすさまじい暮らしと苦難の生涯」


これは白日社「大自然に生きた人間の記録」シリーズの一冊である。1992年5月発行。私が辻まことの本を漁っていた当時、その新宿にある白日社にたどり着いたのだったが、社長さんにお話を伺うなかでこのシリーズも購入したのだった。
しかし辻まことの方に関心が向かっていて、積読のままで来た。家の片づけをしながら書棚の奥にこの本を見つけた。当時への懐かしさに引きずられて読みだしたら面白くて止まらない。編者である志村俊司は白日社社長。学者的風貌を感じさせる紳士であった。

このシリーズはすべて聞き書きである。
テープ起こしも大変だったろうが何より僻遠の現地に通いながら述者と心を通わせることができたのは素晴らしい。今も昔も地方の人は口が重い。自分の身辺を語ってもらう大変さ。

凄い内容だった。「おしん」なんてドラマも霞んでしまうのだ。
述者である山田ハルエさんは上信越国境に近い秋山郷大正7年に生まれた。周囲2千メートル級の山々に囲まれた土地である。口述当時75歳。小学校(分校)にも通えずひたすら子守や家事に尽くす暮らしは秋山郷の子どもらの大半であった。子守しながら学校に行ってもうるさいと追い出される始末。それでも卒業させる。そのでたらめさは現代も似たようなものだが。

弁当もない。一家は常に半飢餓状態で子供は飢えを凌ぐのに山に入ってアケビやら食べていた。

一番過酷な季節は勿論冬。ヒビ切れの足の痛みを緩和するのにまず氷の張った「水舟」に飛び込んで痛みを麻痺させてから風呂桶に入ったという。その風呂の水汲みや湯沸かし当番も彼女の仕事。

食事はヒエ、アワ、ソバ、ジャガイモ。味噌と塩。狭い畑で自給自足だから、いわゆる小作人も存在できない。


彼女は15歳で「冬働き」という一種の出稼ぎに出る。やはり子守や雑用。冬以外は家で過酷な手伝いに明け暮れ、18歳で東洋紡工場に住み込みで入った。ここの寮で優しい寮長の女性から裁縫やら読み書きを教えられた。

彼女は子守や家計のための出稼ぎで婚期が遅れて27歳(数え)で親の意思で村の再婚となる猟師と結婚。その時の状況が面白い。式前日に一人、郷遠方の髪結いにバスに乗って行き高島田結に角隠しまで、首から上を整えた。なにせ気丈で気合が入ってるのだ。ところが気づけば首から下は普段着に晒しの足袋と草鞋。「恥ずかしくてバスのらんねえ」となって普通8時間の道のりを6時間で歩いたそうな。昔の人はいやはや健脚。ところが道すがら「嫁さんだ!嫁さんだ!」と気づいた人が家から飛び出して角隠しの下を覗きにぞろぞろ。「こりゃあ困った」と傘で隠すが、今度は前や後ろと覗き込む。福島方言なら「こっぱずかしい!」となって愈々足は速度を上げて駆けるように帰宅した。尻はしょりで。

夫となった山田亀太郎は働き者だった。冬を中心に半年は猟に出て、他の半年は木挽きや会社の樵や切り出し、土方などなんでもこなしたらしい。ハルエさんは実家の手伝いまでこなしていた。

戦争がひどくなるとその郷にまで供出命令が出て、彼女たちも配給ではとても足りない。そこでお腹に子のいるハルエさんも一緒に焼き畑開墾に乗り出すが・・・子どもも増え「まーるで半分気違えみてえ」な暮らしになる。それでも彼女の祖父の頃はもっと酷い状態だったらしい。手先が曲がるほど。

文字通りの自給自足、開墾地に小屋を建て草鞋から屋根ふき、衣類の繕いやアワの準備、子供の世話・・・焼き畑。

栄養不足から子がお腹をこわし、何とか助けたい一心で二人の子を夫婦で背負い(荷物の上に乗せ)湯田中から志賀高原まで発哺の薬師湯目指して雪山を2日かけて歩く。夫は猟の鉄砲他一式を担いだ上に子を乗せている。10貫目ほどの荷物というから40キロ弱に子ども。それで深い雪山を越えて往く。彼女も荷物と子どもを背負っていた。お腹に3番目を宿しながら。
温泉宿主人の教えに従い湯治ひと月、薬効あり。夫は猟に出て、離宿2日前にとった熊を宿に買い取ってもらった。

下山もまた雪まみれだった。もっとも雪深い3月初め。途中猟師小屋泊。カヤで覆った雪の吹き込む小屋だったらしいが、天辺は空が見えた。そこから「ほんとうに澄み切った月夜なんだよ」とハルエさんが回想する。猟師たちが彼女らに用意してくれた木の枝の上で寒さで眠るどころではない彼女が・・・それで翌日彼女も限界となり谷底まで降りるところで「オリャアダメだ・・降りらんねえ」と初めて弱音を吐く。死ぬ思いで降りたところで足は一歩も前に出ず、和山というところで電話して迎えに来てもらう。迎えに来た男は彼女が以前親代わりで育てた子だった。

その他、「お産・母子ともに死に損なう」も凄い話。また「オヤジが発破で目をつぶす」というのは工事現場での発破の破片で夫が片目潰された顛末。補償はアコギそのもので電力会社も昔からアクドさが酷かった。

「急性盲腸炎・ソリで運ばれる」は腹痛と思って熊の胆を飲んでいた彼女が痛みが耐えられず夫の判断で入院手術する話だが、熊の胆を飲んでいると麻酔が効かないらしい。つまり麻酔無しと同じで手術した・・・恐ろしい・・・

生活保護受ける」は彼女の病み上がりが長引いて夫だけの収入では如何ともし難くなった話。しかし子どもが学校で虐められて保護を打ち切ってもらう。「子供にまで、こんなみじめな思いをさせたくなかったから。補助をもらわなくても家中死ぬことはないんだから・・・」

「難しい子育て」は私には耳が痛い。私のは甘やかしなんてものじゃなかったから。叱る時は叱ったが・・・「ジーちゃんが、いいやいいやそうかでもって甘やかしてたら、俺はいま何になってたかわからねえ。一人前の大工になれたってのもジーちゃんのお陰だ」と、体が弱くいじめられっ子の次男の言葉にハルエさんはビックリ仰天したが、めでたし。彼は努力して1級建築士の資格も得た。

彼女は猟師の妻であった。猟師は海もそうだが博打好きであったし、家を空ける期間が長かった。家を守るのは彼女の双肩にかかっていたわけだ。

75歳の彼女は働きすぎで両足の骨が変形しているが、人口骨置換術の手術はしない。

「悪いったって、人の世話にならなくちゃいけねえわけじゃないし。今、こうしてここにいて、まだ畑仕事もワサビ作りでもキノコ採りでもなんでもやれんだから」

 


追記 辻まことは山男であったが、ハルエさんのような暮らしもつぶさに見ていたはずだ。


    「さらば佐原村」抜粋      辻まこと

ただそれだけで
 お風呂が わいたのがわかる
 声は皆な
 いのち
 音は皆な
 深く
 光は 遠く
 時は 静かに
 ていねいだった
 佐原村
 さらば
 わたしの 佐原村
 もう おまえの処へは もどらない
 ある日
 長根の笹原を 渡ろう
 風の中から
 阿珍のアシ笛が
 わたしの声を
 みつける日まで

この「時は 静かにていねいだった」という意味は彼女たちの暮らしの中にあったのだった。

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