pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

阪神淡路大震災から



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阪神大震災の被災者を自治体が「追い出し」 借上げ復興住宅で起きていること」2016年10月4日

https://www.min-iren.gr.jp/?p=28828
県と各市の対応
要配慮世帯を除き退去…兵庫県(80歳以上、要介護3以上、重度障害者のいる世帯など)、神戸市(85歳以上、要介護3以上、重度障害者がいる世帯)
全世帯退去…西宮市
退去させない…伊丹市宝塚市
検討中…尼崎市(2018年8月まで現状)

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阪神淡路被災者を追い出す神戸市の冷淡さ」2019年01月20日
http://blog.livedoor.jp/happajuku/archives/52131459.html

 「昨年10月に、1件の高裁判決と1件の地裁判決があり、どちらも住居の明け渡しを認めたものだったそうです。こうした被災者の住居問題への対応は、自治体によって異なっているということが記事に書かれていました。
 宝塚市伊丹市は20年を超えても無条件で入居でき、西宮市は一切認めず、神戸市は85歳以上、要介護度3以上、重度障碍者は認められる。また、同じマンションでも、県が借り上げた部屋の住人は住み続けられる。
 同じ災害で被災した人々への対応がこんなにばらばらでよいものでしょうか?

  政治はいったい誰のためにあるのでしょうか。

  東日本大震災から8年が経過しようとしていますが、東北の被災者の方々は今後どうなるのかも気になります。

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原発避難者から住まいを奪うな】近づく〝切り捨て〟の春
https://blogos.com/article/348955/
 結局、福島県は2015年6月15日、〝自主避難者〟への住宅無償提供を2017年3月末で打ち切る事を正式に発表した。業を煮やした京都への避難者が、内堀雅雄知事との直接対話を求めて〝直訴状〟を手に知事室を訪ねた事もあった。しかし、当事者の声は全て無視された。

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2020/1/14 14:20神戸新聞NEXT
81歳女性、市長に手紙「行き場ない」 復興住宅の退去判決確定
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202001/0013032347.shtml




棄民というおぞましい言葉がある。
棄民政策と呼んでよい実態がある。

被災者という存在はそういう存在である。

上記の3つを読んだだけでも、それはしっかり理解できるはずだ。同じ構図である。
もとより自然災害多発の国。
加えて原発崩壊まで加わった。昨今の異常気象や巨大地震と併せて私たちは感覚を麻痺させるか怯えるかの暮らしを余儀なくされ、万が一の時は「棄民」となる。

明日は我が身という事さえ理解できない国民。


民主主義などというのは形式に過ぎなくなった。


弱者というのもそういう存在である。
老若男女の貧困問題は深刻さを増し、教育も医療も富裕層と貧困層の二極分離が進行する。
差別は助長され国民意識はさらに荒んでいくだろう。
テレビや新聞はそれを煽る。

疎外という言葉がある。
ヘーゲルからマルクスにその概念は批判的に高められたが、マルクスの言う疎外は労働における疎外だった。

「Sorry We Missed You 家族を想うとき 」ケン・ローチは、その現代的な家族を通しての疎外を描いたと思う。家族のために必死で働く親が、そのために家族崩壊の瀬戸際まで追い詰められていく。

そんな弱者の姿は勿論日本も同じである。
そんな疎外の在り方の本質は自己疎外であろう。熊沢被告は「上級国民」の勝者らしいが、前に書いたようにこういう人間は既に中が空洞なのである。子供の時からの自己疎外の人生の果て、辿り着いたのが子殺しだった。だから惨殺が可能だった。理屈がつけばよい。すなわち相模原障害者施設殺傷事件の植松被告と同じなのである。子殺しせずとも十分悲惨な人生なのだ。


つまり強い弱者が弱い弱者をいたぶる国なのだ。
政治がそんな弱者(アベ首相一派も知的人格的欠損者としての弱者と観れば)の集団の場であった。

国家予算300兆円(特別会計含む)の日本の姿である。

今後も自然災害は襲来する。
伊方原発は一応運転停止の仮処分となったが、伊方を含め休止している原発はどんどん運転を開始させていくだろう。

しかし、上記民医連の記事の末尾に次のような意思が述べられている。

強硬な姿勢を崩さない神戸市と西宮市に対し、入居継続を求める署名も始まっています。兵庫民医連の東郷泰三事務局長はこう語ります。「大震災から二〇年後の兵庫で起きた問題が、東日本や熊本、他の被災地で繰り返されぬよう、たたかい続けます」

 

そう、最後まで戦うこと。それが希望となるのである。