pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

生きているうちが花なのか。


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職場は既に職員をグループに分けローテーションで回しているが、昨日勤務したら児童は一昨日からゼロ。児童館が引き受け、午後学童に引き継いでいるとか。

そこで問題となるのがイカれた市民が、教師はなにやってんだ!休んで給料をもらっていいのか!ということ。

こういう手合は昔からいて、教委は教師の自由な時間、例えば長期休業中とかの教師の自宅勤務に様々な縛りを掛けて来た。
一日、何を研究していたかをレポートさせるとか、何を縛ろうが、ダメ教師はダメ。私などは読書レポートて済んでいた。

今回の休校で、またぞろそんな手合が出てくるので校長は自宅勤務者に、しっかり裏付けの出来る内容を求めている。

本来教師こそ自学自習を本旨として自分の幅を広げる努力は前提であり、また、それは楽しいことなのだが、上意下達で無意味な雑用が山をなし(例えば作成後誰も見ない指導要録)、年中生徒対応に追われ、また教師間、対教師、対管理職、対教委間問題に追われ疲弊の一途であり、自分の研究に打ち込む環境ではないのだ。
ごく一部の私学では教師負担の雑務は極力軽減され、教師は自分の研究や授業に打ち込む体制が可能なのだが、公立には望むべくもない。自殺が続く現場だという事実はそんな全てを象徴するが、日本社会はそれを無視し、結局学校崩壊の内実は悪化する。

上述のイカれた市民らは弱腰の学校や教委相手に日本を弱体化させる大手柄を発揮している。そんな中で、モノ好きも程がある私の小学校勤務。

と、思って、覚悟して入ったが、休校。しかも一昨日から児童ゼロ。私は算数補助なので算数専科教師に何か手伝いないかと要求(私のような男が隣に居るだけでもプレッシャーだ)。

それでは、と彼は言いながら、算数の教科書指導書の確認作業と、算数専科のクラス名簿作成を依頼してきた。

おいおい…まだクラス名簿もできてないのかよ、3月には作っているはずのものが……

可哀相に、アベの発作的休校要請に振り回されて、そんな基礎資料も手つかずの惨状。
という訳で、教科書などの確認作業はさっさと終えて、名簿作成。3年から6年生まで全クラスの専科名簿、もうとっくに忘れたエクセルで打ち込んで行った。単純作業だが、時間を食う。これで一日終わり。

助かりました!

算数専科教師も真面目な男である。

後は勤務している数人の教師らとバカ話。ゲラゲラ笑っていると職員室の隅に居た教務主任が加わって更に笑い転げた。こういうのも私の得意分野である(笑)

今朝、私も入れられた専科グループのラインで、彼らがボソボソ会話している。基本私はお手伝いさんなので加わらないが、内容が、自宅勤務の活動内容で、理科専科の先生が悩んでいる。まことに朴訥平和温厚な30代の男でどこか相当ずれた反応で、完全なイジられキャラなのだが、アザラシのような顔も相俟って可愛がられている面もあるが、未だに正採用ならず今夏も採用試験を受ける。

彼の相談に他の専科が沈黙しているので、助け舟を出すつもりで答えた。
学校の大きな縛りに学習指導要領というのがある。小中高全ての学年教科にああせい、こうせい、と事細かに指示するのであるが、私は殆ど参考にしないで来た。常に変化し一人ひとり異なる個性や感性を数十人日々相手にするには、そんな指示は役に立たないどころか有害でさえあった。
ところが、今春から新指導要領が実施の運びとなった。私は自分の昨秋の採用試験前日に流し読みしただけなのだが、内容の殆どは旧来の代物ながら、新しい概念が説かれていた。

アクティブラーニングとカリキュラムマネージメント。
簡単に言うと前者は児童生徒の主体的参加で、後者は科目の横断的な関連付けでの授業。

前者は以前より教師らの自発的実践があったが、後者のカリキュラムマネージメントは日本では比較的新しい概念だ。例えば国語なら、文章に理科的内容や歴史的内容があれば、それらを関連付けて学ぶという事で、また暮らしや人間の思想などあれば、生活学習、哲学学習となりえる。

このカリキュラムマネージメントを敷衍すれば教科枠を越えて授業が成立する事が可能である。

では、それを成立させるにはどうしたら良いか。

言わずもがな、教師が自分の専門領域に拘らずに幅広い教養が必要となる。それが実は大学で実践されているリベラルアーツ、教養課程である。文科省には気に食わぬ存在なのだが、否定は世界中の嘲笑を浴びることなので、できない。

そのアクティブラーニングとカリキュラムマネージメントの研究を相談者に伝えた訳だが、理解が非常に困難なのは仕方ない。しかし、その2つが現状の授業の惨状を突破する力を持つ。現場ではおそらく画餅となる。北欧では、また、ごく一部の私学ではそれを実践する環境整備ができているが、もはや3流国家に落ちぶれた日本の学校は教師の青色吐息が覆う世界である。


さて、真面目一徹の彼は…

昨日の談笑に戻す。

彼女とは何年付き合ってんだ?

10年くらい…

恋人なのか?

恋人…未満……友だち以上かな……

そこで隣の算数に振る。

未満とはぎりぎりを言うのかな算数は

いえ、それ以下ず〜〜と!

そうか、国語じゃね、違う。
彼が、未満、と言った時には、恋人にぎりぎり近くあってほしいという期待が込められているから、国語的には、この場合は「ぎりぎり」なんだよ。

算数はキョトン。
算数はプライドが高い。

しかしねえ、20代から10年付き合って…恋人未満友人以上かあ、面白いなあ、文学的対象になるよ

おばさん先生たちはゲラゲラ笑った。
やはり、生きているうちが花かもな。
いや、笑っているうちが花か。



写真、団地沿道に植栽されたプルーベリーの花。馬酔木やドウダンツツジとそっくりな花。