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吉野は花
桜紅葉
吉野の山は奥千本からが良い。
人出は大体は中千本止まりだ。奥千本から西行庵となると数人程度となる。
例年だと今頃が見ごろとなるがさすがに行けないと諦めていたが、つい町のHPをのぞいたら、花は上旬には散っていたらしい。次に宿を見たら、これはまた驚いた。コロナ騒ぎの渦中、空き室なし。まあ例年満室の時期だが、今回は・・・残念ながら花の後。しかし、ここは数か月前には予約しないと取れないのだから、まあ仕方がないか。
新型コロナウィルス。
保菌者となっても自覚症状がでない場合があるからやっかいだ。無自覚に人に移してしまうのが怖い。私の場合は通勤リスクだけだが、小出しの休校措置で現場の混乱は続く。
ネットであちこち暇に任せて拝見していたら、旧知の人のブログに久しぶりに遭遇した・・・亡くなったとは人づてに聞いていたが、彼の入っているブログから離脱していたので拝見する機会がなかった。
たかたん菩薩さん
以下、彼の文章の一つを引用させていただく。一文一文頷く私がいた。
私の雑な文章よりずっと丁寧で洞察も豊であり、ひと時、楽しい交流をさせて頂いた。
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世にふるは苦しきものを真木の屋に
安くも過ぐる初時雨かな
二条院讃岐
『新古今和歌集』(巻六 冬)
――この世を生きるということは苦しいこと。
なのに、真木の家屋をいともやすやすと降り過ぎる初時雨であることよ…
「真木(まき)」…真(ま)は接頭語。杉、檜など良質の木材、特に、檜の異名。
「世」は「夜」に、また 「ふる」 は 「経る」 と 「降る」 と掛詞になっていることは一読してお判りだろうと思う。
更に、「過ぐる」 は 「世に経る」 と縁語ともなる。このように一読明快な歌でありながら、やや錯綜したレトリックを用いて、一首を潤色している。
人生は辛く苦しいもの。 しかし、大自然は人の思惑とは関係なしに自然の摂理に従って動いてゆく。 どんな人為の権力を以ってしても、雨のひとつ、時雨のひとつも抑えることは出来ぬ。 自然に抗(あらが)うことは神仏に背馳(はいち)すること、それはまさに蟷螂(とうろう)の斧そのもの。 只々、造化の神妙なる世界の一員として、心鎮(しず)かにこれを見守り、その胎動に身を任す他ない。
然し、猶、人は己の人としての自尊と叡智を信じ、これを変えようとする。 その天からの竹箆(しっぺ)返しはまた甚大苛酷。 人為がますます手の込んだものになればなるほど、天の返しもまた甚大に。 いたちごっこは科学技術の発展と人間は讃美しながら、大自然は嘲笑うかのような意趣返し。 自然と佳き共生を実践できるのはいつのことだろうか。
「安くも過ぐる」 に大自然の人知を遥かに凌駕した設営を感じ、身震いと共に、畏敬の念が漂ってくる。
大自然は、敬して遠ざけるものではなく、敬して近づけるものであるはずなのである。
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芸はまた人知の妙、こんな曲を。
ブラームス ハンガリー舞曲全集(全21曲)
オトマール・スウィトナー指揮
ベルリン・シュターツカペレ
元はピアノ連弾用に作曲されたものを管弦楽用に編曲したもの。 コンサートのアンコール曲としてよく演奏される。 愚生も第1番 ト短調をアンコールで聴いたことがある。 驚くべきことに第1番のブラームス自演のレコードがあったというニュース。 最も古いロウ管と呼ばれる円筒形のもので、再生不能とされていたが、1997年に、日本で復元に成功したとか。どんなだか一度聴いてみたいと思うのは愚生ひとりだけではあるまい。
数あるレコードからスウィトナーの録音で。 なんといってもオケが断然素晴らしい。ややテンポが揺れ動くのが気になるが、一気呵成な音楽運びは圧倒的。
2018-01-05 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼の最期のブログはお嬢さんのご挨拶であった。できたお嬢さんである。最後に「7月2日 11時48分に永眠」とお嬢さんが記していた。
何百万とあるブログの中での、昨日のこれもまた偶然の再会だった。こういうことが起きるのだ。
ここまで昨日書いた。
今朝も散歩した。眩い光が木漏れ日となって広がる森を彷徨いながら大きな楠の木の足元に立っていた。見上げれば蒼々と茂れる新緑が爽やかな風に揺れていた。たかたん菩薩さん、お世話になりました。
桜花散り散りになる木の下に
名残りを惜しむうぐいすの声
西行 山家集