pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

親は自分の存在を掛けて子を守りたい

明日、退職届を出す。

そのつもりで自分の今をまとめたい。別に何の気負いも無い。サバサバとした気分である。



親が守らなければ子がどれほど苦しみ悲しみ生きて行かねばならないか自明であるが、その親たる大人が既に壊れかかった、または壊れた者たちが大勢いるなら、この社会は終わっている。


恐ろしい事に、子どもを相手にする仕事に就いている教員と呼ぶ人種まで、そんな輩があちこち潜んでいるのは周知の事実。

 

相俟って70年間の教育行政は改革と称して改悪をせっせとやってきた。

 

自民党教育行政(どこが中立だよ)とイカれた教員はクルマの両輪で公教育の内実破壊に邁進し、現在の荒廃がある。

現在の荒廃?
バカ言え、とっくに荒廃し、今はその荒廃さえも余りにも進行し、多くの国民の目はその荒廃を異常とも感じない。

 

常に飼いならされるのが日本人の特性か。何事も諦めが先に立ち、思考の外に放り出すか。 諦めが肝心。そうして、嘆きのなかで我が子らを戦地に送り出すまで状況が悪化する事を、爪楊枝を咥えて傍観し続けるか。


何を言う。日本は平和だよ。

そうかい。

戦争でも何でも凶事の起きる前は平和平穏なのだよ。その平和平穏の最中に凶事は着々と準備されるのさ。


中学高校とさ迷って、小学校に今春たどり着いた。まさか自分がこの歳で小学校教員となるとは想像もしなかったが、無策による就労人口の減少、年金支給繰り下げ(そのうち75歳支給となる)の余波が自分にも及んだ訳だ。

任期付き時短教員。
ここではまだ3年しか経っていない制度である。中身は全く情報がなく、面接で担当官から初めて知らされた。

え?小学校ですか?私は小学校の免許は持っていないのですが。

構いません。大丈夫です。

採用試験での提出書類に免許状写しを出させておいて、随分呑気でいい加減な話だと呆れた。これも自民党働き方改革ナンチャラの影響か。まことに締まりのない話となったのだが、こちらは小学校未経験で、まさか経験できる機会が来るとは夢にも思わなかったから、承知しましたと面接官に伝えた。モノ好きと好奇心は同義語で、後先考えずに入っていくのは我がサガである。

 


4月以後、勤務が始まった。日記に何度か書いた通り。当初の私の懸念は新コロナに自身が感染し、それを子どもらに移してしまう事だった。遠距離通勤の先がコロナ繁盛の地。当たり前の懸念だ。しかし程なく休校。入学式くらいの子どもとの関わりだけで、気楽になった。

 

私は任期付き時短教員として、算数専科教員に付く。面接で初めてそれを知った。つまり、それほど、どうでも良い立ち位置なのである。まぁ気楽な事と思えた。

主の教員の授業に入り、理解の躓いている子どもを助ける。

なるほど、これがティツーか。一見、手厚い制度だ。一見は。保護者か見ても少しは安心できる、ウケの良い制度である。

 

しかし、逆に見れば、同じ授業に複数の教員を配置せざるを得ないほど、授業は追い詰められているという事だ。

 

休校以後、教員たちはせっせと自宅学習用の課題プリントを作っていた。何にせよ、学校はやってる感を出さねばならぬ。一方で、先進的な、一部の私学は端末での授業を早々に開始していた。御三家と呼ばれる学校での授業内容は天地の差。例えば、国語では、一冊の本を半年や一年かけて読み込む。つまり教員の自由裁量。高校の話だが。

私は端末授業に批判的であった。取りも直さず、利権絡みの動きになる。現場無視で端末が配られて後はお任せ。公立など目も当てられない。

 

しかし、今の私はそんな授業を肯定する。いや、是非そうあらねばならぬと確信した。

なぜか。

学校という悲劇的空間から子どもたちを遠ざけられるのだ。授業だけを端末で受ければ良い。何と革命的な事か。

これで学校から受ける様々な害悪から子どもたちを守れるではないか。


害悪と書いた。


何も教員の子どもへの犯罪は、刑法だけではない。


ご存知の方々も沢山いらっしゃるはずだが、小学校を経験して、中学高校と子どもたちが荒れていく原因の大元が実感できた。


この一週間、再開して主に1年生の授業を見た。算数専科ではない。つまりご都合で、どこか「大変」な授業に入るのだ。

 

え?1年生?
そう、雑務が大変。のはずだった。
まず、登校児童へのお出迎え。なんなのこれ。ホテルかよ。次、玄関前で検温チェック。次、手洗い、次、入口専用の入口から児童を、入らせ、学童用の荷物は専用の置き場に置かせ、ランドセルから連絡用のノート、健康観察という検温チェック表を出させて、家庭での検温をチェック。登校時の検温やっていても、気が済まぬ。それで、観察表を忘れたり検温の記入のない子どもは保健室に直行させる。

初日私はその保健室補助に入らされた。で、保健室前は書いた通り3密状態だが養護教諭も全く気にしない。
やってる感が必要なだけの作業が、子どもが教室に入るまで続く。


バカじゃないかと思った。

 

「おはようございま〜す。今日も宜しくお願いしま〜す」と直立不動の姿勢を、させて、ご挨拶。しかし…

頭を下げて…「いち!にい!さん〜」と担任が数えて、さん〜、が終って頭を上げさせる。

ここで既に恐怖を覚えた。

 

着席も起立も着座中も全て規則(お約束と呼ぶ)があり、返事の仕方、姿勢、視線まで強制する。子どもたちは一生懸命である。良い子であろうと頑張っている。


担任の授業中、担任が配るプリントをこちらが受け取り子どもに、配る。漢字の練習プリントなら、その、書き方を指導する。たった16人(分散登校の為)に。しかも私の他に補助教員が1人入っている。計3人の教員が1つの授業に張り付いているのだ。

 

何もかもが異常だった。担任の目が。昔、笛1つで子どもたちを自在に動かす指導が問題になった事があるが、忘れられた。子どもの全てを支配する幻想に溺れ、それを支配とは自覚せずに満足する学校。

 

そうそう、件の算数専科教員、木曜午後、私にやり込められて、実はその後に校長室にタレ込みに行っていた。

翌日金曜放課後、副校長から呼び出しを受け、校長と話をしていて、その事が露見した。

 

何が何でも私をまる子ちゃんから引き離して、上記の対応だけに張り付かせたい訳だ。校長は彼から吹き込まれたことを鵜呑みにして私をご注意なさったので、私から言い返される内に、おかしいと気付き始めたようだ。算数男の言い分が。

しかし校長も校長。
そんな苦情が有れば双方呼んで事実確認から入る。それが基本のキ。ご存知ない。

それで、夕会後に話を聞くとなり、夕会後に副校長が来て算数男と一緒に来るよう促した。

そこで私の感情が湧き上がった。

「こんなチクリ男と校長室で話し合う?チクリをやらかすこいつは最低の男ですよ!今の自分は腹が立ってるので話し合いにはなりませんよ。怒鳴りつけますよ、良いですか?」と、隣席の算数男がいる中で答えた。

「そうですよね、気持ちは分かります」と副校長は、うっかり答えた。その後、算数男は図工女と共に副校長に何か訴えに行った。チクったことがバレたので抗議しに行ったのだ。とことん幼稚。


私は机を整理した。書類など全てはゴミ箱へ。ロッカー内の荷物を紙袋へ入れて帰宅した。

そうそう、私の机の下の引き出しには算数男の教材がぎっしり詰め込まれていた。5月始めの頃だ。朝出勤したら彼がニタニタしながら、事後承諾を求めてきたのだった。こいつの幼稚さを理解した頃なので、いかにもやりそうな事、承諾した。しかし…長年教員をあちこちでやってきたが、これ程幼稚な35歳の男は見たことが無い。大学2つ出た男。口先で同僚を誑かし、管理職まで誑かそうという。そういえば着任早々管理職の悪口を私に吹き込んでいたな。屑め。


私が退職する理由は、こんな狂人に近い幼児の授業(おそらく学テ用)に付き合う義理は無いという事。そして、ぶん殴る可能性が極めて高いこと。もちろん、何の得にもならぬ。殴りつけて刑務所に入るのも1つの経験とまで、さすがに愚かな私も考えない^_^


最も大きな理由は、この4日間、まる子ちゃんを見て、彼女の苦しみを少しでも理解でき,彼女の成長を理解した事だ。彼女はここの教員よりずっと、私よりも大人だ。できれば見守り続けたいが、私の任期は最長2年、騒動を起こしてしまったから、1年で終わるだろう。もちろん、まる子ちゃんとの接触は常に監視される事になる。そんな気配さえ彼女は感づくだろう。学校にいる限り。
彼女へのケアは断たれた。


そう、お読み頂いた方は、ここで既にお気づきかと思うが、私自身、1つ旧弊の発想を捨てきれないでいたという事実。それは学校信仰だ。私は彼女をそんな授業に促そうとした。完全な誤りである。
 

そもそも、こんな学校など子どもにとって有害無実であるという事だ。日本にとっても。ただ、学歴主義の為に存在する。つまり卒業証書の紙一枚の為に子どもらの最も豊かな人生を貢がせるのだ。学歴主義の壁は極めて強固である。進学や就職では乗り越えねばならぬ。方策はある。豊かな学びと学校は切り離す外は無い。方策はある。

 

小学校で稚拙な授業の詰め込みの一方で、幼い子に軍隊並みの躾をする。自民党右派の教育思想そのもの。身の毛もよだつ有様だ。

 

全ては歪んだ大人によって行われる。制度は大人の手で歪み崩壊する。いつの時代も。こんな私のささやかな立ち位置さえも悪用される。


幸か不幸か、保護者の方は彼女の登校を強制しない。彼女の兄は完全不登校だったという。子どもの意思を尊重し、家族親族くるみで彼女を可愛がっているという。安心である。

 

勉強?

前にも書いたが、そんなものは意欲が生まれれば簡単なのだ。図書館に行け。十分過ぎる。算数は難しい?一番簡単さ。やれば分かる。理科の実験や実技?そんなものはそれだけでは何の意味もない。世界の繋がりの中でのみ意味がある。

進学?

義務教育までは不登校で良い。むざむざ餌食として子どもを差し出す義理はない。

小学校で抑圧され不信感を蓄積した子どもは早い子で高学年から、普通中学から「訳のわからない怒り」が発現し始める。その「訳のわからない」怒りさえ失われた子どもは内向の中で、従順で自己発達不十分でどこかに大きな歪みを抱えた、「永遠の歪んだ子ども」となる。日本社会はそんな連中に動かされている。考えてみるとこれ程恐ろしい事は無い。

 

ゴヤの『我が子を食らうサトゥルヌス』をつい連想する。サトゥルヌスを家族や社会に国家に置き換えればよい。

 

しかし、懲りない私は、未だ希望は捨てていない。若い人たちが現に立ち上がり、声を上げ始めているからだ。応援したい。当たり前だ。人間というより、動物としての本能だから。