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珈琲館と言ってもチェーン店のそれではない。
一昨日、退職届を出して帰る途中、駅前喫茶店のその店に入った。
前にも書いた、もう50年の超老舗。老舗に相応しく、キャップ帽の常連の小柄痩身の老人さんが1人カウンター席に座っていた。
前にも会って話を交わしたが、84歳。
1つ席を空けて座る。まもなく80歳になるマスターは昼飯なのかカップヌードルを食べていた。
どうぞ食べ終ってからで良いですよ。
ありがとう。そう言われると思ってました。
マスターはニコニコ顔で残りを食べ始めた。小柄ながら切れ味のよい顔立ちで、薄くなった髪を後ろで束ねている洒落者である。
お元気ですか?
うん…しんどいけどな、なんとか歩いて来るんだよ。
隣席の老人が答える。
歩くのは基本ですからね。私も70近い老人ですが、毎日歩いていますよ。1万歩以上。
この人は学生時代にラグビーをやっていた。マスターは野球で高校時代に王貞治と対戦した話を前に聞いている。
王貞治は凄かった。打てなかったよ。
マスターは大学では東都リーグで頑張ったのち、推薦された社会人の軟式野球に転じて全国優勝を果たしたという。
社長が軟式野球が大好きでな、優勝した時は大変だったよ。全員タクシーで会社に戻ると祝賀会が盛大に設けられていたなあ。
マスターの目は遥か遠い昔を見ていた。
この人はな、お母さんが全部道を作ってくれてな。
と、私に隣席の老人の事を話してくれる。彼は言葉が少なく、少したどたどしいのだ。ニコニコしながら隣席の老人は頷いて聞いている。
中学高校大学、お母さんの言う通り進んでな、就職先までお母さんの言いつけを守り、最後まで勤め上げたとマスターはからかい半分褒めた。
とっくに珈琲を飲み終えていた老人は、では、と腰を上げた。ドアを開けて出ていく後ろ姿を見ながら、マスターは、あの人84歳だが、どこも悪くないんだよな。凄いと思うよ。と真顔だ。
マスターも元気そうに見えますけど。
いやあ、僕は明日通院。検査だよ。血液検査、朝食抜き。糖尿なんだよ。30代からね。意地汚い病気だ。どうしても食べたくなる。たまには良いかなんてな。ワインが好きでな、毎晩飲んでるが、たまに飲み過ぎちゃう。昨晩遅く飲んでたら奥さんに見つかっちゃた、アハハ。
ああ、私の父も同病でした。90歳の誕生日に亡くなりましたが、薬の管理さえ出来ていればもっと長生きしてましたよ。
ひとしきり糖尿の話になった。
明日僕の誕生日でね、80歳、なんだかねえ、さほど嬉しくないな。
ああ、それも私の父がね、80半ば辺りでしたか、「誕生日祝いなんて要らん!」なんて怒り出して困りました。孫が傍にいるってのに。
アハハ、いや、怒ったんじゃなくて照れくさくなったんじゃ?
いや、ホントに怒ったんですよ。まぁすぐ収まってお祝いしましたが。どうも誕生日ごとに死が近づくのが怖かったんでしょう。海軍で死に損なって、その時の恐怖から逃れられない姿を知ってます。夜中に酷いうなされかたでね。その度母が宥めていた。
マスターは少し呆れながら聞いていた。
僕はね、80過ぎたら良いよ。身辺整理もしてある。財産、少ないけどね。死ぬ前に使い果たす計画だ。娘がいるが、僕や奥さんが最期迎える時の病院費用とかは預けてある。孫もいないしな。気楽さ。
客が入ってきた。やはり高齢者だが、この人は気難しそうに、座るやいなや新聞を広げた。
じゃあ、また寄らせてもらいます。
また来なよ!
マスターはニコニコと私を送り出した。
マスターは少なくとも30分は客が座ってないと機嫌が悪いのだ。それが自分の店だと信じている。美味しい珈琲360円で。欲がない。
また行くつもりだ。
写真、ハイビスカスが咲き始めました。