今月始めに蓮の花茎が伸びてきたが、程なく枯れてしまった。
今年は無理かと思ってたら先週来また伸びて来て、昨日花開いてくれた。
花はどんな花も全て花。造化の極。
しかし蓮の花はまたまことに見事な花で仏教の象徴とされるのも分かる。
香りも素晴らしい。
その花托は熱を抱くと以前書いた。
手のひらで包み込むように熱を抱く。
全ては命の目的を果たさんが為である。
午後花を閉じている。
となれば私のような者は用済みであるのだが、まだ生きることへの執着も残っている。
小侍従についてである。
極めて未熟な走り書きさえ中断したままだ。
平安末期の過酷極まる時代。
自然の大災害、地震、大飢饉、疫病の蔓延などに加えて社会の大動乱が加わった。貴族社会の崩壊と武家社会の到来。平和は内部から崩れた。(またそれはいつの時代も同じだったが)
そんな中で日本文化の粋である和歌が頂点を極めたのだ。西行という頂きはまさしくそんな時代、末法思想を人々が実感した中で生まれた。
西行にどれほどの苦痛苦悩が蓄えられた事だろうか。
女性の、貴族社会の宮廷内に閉じ込められ
た立ち位置は男たちの比ではない苦しみがあったが、そんな中で、小侍従という歌人を私は教えて頂いた。ネット上で小侍従を専門に研究なさっていた方から沢山を学ばせて頂いた。
そこに、活き活きと呼吸する小侍従が歌を発散していたのである。それは愛らしくときに辛辣、おおらかで打てば響く美しい知性が広げられていた。あんな過酷な社会の中で。
その小侍従が西行とも交歓を持っていた。名だたる武将たちとも。
西行については様々な作品が生まれている現代だが、小侍従については無い。大作であり、最も西行を掘り下げて描いた(と、これは私見)辻邦生の『西行花伝』にも触れられていない。
もちろん私などが小侍従を作品に浮かび上がらせるなど笑止であるが、自分の執着は夢となっている。どんな夢でも夢は捨てないのが良い。夢は突き詰めて行けば現実となる。現実から夢は生まれているのだから。いうなれば夢と現実の輪環の中で生きている。
今日は送り火の16日だ。
祖霊をお送りするという。
祖霊など見たこともないが、もしかすると高校生の時にまぼろしに見たあの顔かも知れん。4~5人ベッドの上の空間から現れて私を見下ろしていたな。
ご先祖と言ってもせいぜい明治の遡ればそのイメージは尽きる。しかし、確かにご先祖在っての自分である。もしかすると遡れば私のご先祖は鼠や蛙、メダカかも知れん。いづれも全て命を繋いで繋いで必死になって繋いで来たには違いない。その結果としての私の存在ではご先祖に顔向けできないが。まぁこんな出来損ないも出来るのが世のならい、勘弁してもらうしかないと祖霊様たちに謝罪する日でもある。
蓮の花は開花時にポンと音を立てるという話があるがまだ聴いたことがない。
これは虎の尾。安曇野にて。