pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

『リスボンに誘われて』

退屈・・・こうも暑い日が続いていると外出も庭も意欲がなくなる。いや、梅雨入りからそんな毎日が続いてきた。ネットフリックスで映画を観たり読書をしたりという毎日もそれなりに良いが、今日はその「退屈」に引っかかってしまった。


映画『リスボンに誘われて』

スイスの高校教師で古典文献学専門のライムント・グレゴリウスが妻と別れた理由を、自分が退屈な男だったからと話し始めるシーンがあった。

 

彼はアパートメントで日々一人チェスで気を紛らわせている孤独な日々であったし高校の古典文献学専門では(日本では「古典」という括りだけだが)、それは話題に事欠くだろう。もとより非社交的。そんな彼が妻に「退屈な男」として愛想を尽かされたわけだが、しかし、それはある日のパーティーでの話題(文学だったか哲学だったか)で「そんなことは分かるはずがない、分かる者だけに分かるのだよ」と呟いた言葉に妻が強く反応してしまったことが明かされる。妻は常識人であり、夫の見下すような言葉が我慢ならなかったわけだ。

 

「分かる者だけに分かるのだよ」

 

悪意ではなく当たり前のことを言ったつもりのライムントだがTPO重視の常識人には耐えがたいことであった。彼の退屈さはそんな「傲慢さ」というレッテルと併せて増幅されたわけだ。冒頭のシーンで一人チェスを黙々とやってる意味である。

 

退屈だったライムント・グレゴリウスをジェレミー・アイアンズが演じるが役どころは狂言回しである。ある日橋から身投げしようとしていた娘を助けたことから、一冊の本『言葉の金細工師』に出会う。その著者を探しに(娘を探しに)彼は学校を無視し突然リスボンまで旅するが校長は寛大である。ライムントの文章への傾倒ぶりが美しい。

主人公はその著者であるアマデウ・デ・プラドでカーネーション革命のただ中でレジスタンスの一員として苦悩し格闘した医師である。その彼の言葉が随所に現れてこの映画の作品を美しく深くする。以前カミユの映画を取り上げたことがあったが、同質の美学だ。

 

「若い時は皆、不死であるかのように生きる 死の自覚は紙のリボンのように我々の周りを付かず離れず踊るだけだ
それが変わるのは人生のどの時点でだろう?そのリボンが我々の首を締め始めるのはいつだろう?」

 

美しい文章の大人の映画だ。アマデウは脳動脈瘤を抱えながら隠し、そして若くして死んだが。

 


「ふたたび人生のあの時点に立ち、現在の私へと導いた道とは違う方向に進みたい。
人生を十分に生きたとき、我々は自分へと旅をする、人生がどんなに短くとも」

違う道・・・革命と恋という定番のテーマだが純粋と知性が陳腐を否定する。しかしその若い葛藤の煉獄に生きた人生とは違う道を願うのは当然。

 

「人生を十分に生きたとき、我々は自分へと旅をする」
人生の見かけの長短など無意味で、こんな感慨を得られる人生はしみじみと良い。我々東洋人には人生を旅ととらえられる文化がすでにある。

 

夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。
而して浮生は夢のごとし、歓を為すこと幾何ぞ。
   李白詩『春夜宴桃李園序』

李白は人生を軽々と超えて天地の世界に遊んだ。しかし、アマデウの「我々は自分へと旅をする」もまた抗いがたい魅力がある。なぜなら自分とはすべてだからだ。天地の世界もまた自分であるからだ。

 

私は遡行する。遡行の果ても消滅である。その時、自分の経てきた世界がどれほどに懐かしいものであったか、美しさに溢れていたかを、その残酷さ残忍さの苦しみの中に感じたいものだ。

ただ、アマデウの魅力は退屈だったライムント・グレゴリウスから見て、その哲学的思索から紡がれた文章の美であり、それは同時に革命を生きたその内面的充実であった。空虚を抱え孤独な人生の終局を歩もうとしていた退屈だったライムントが、いきなりリスボン行きの列車に飛び乗た姿は衝動的発作とも当機立断とも見える。自殺企図の娘への教師的懸念と同時に。

 


「私たちはある場所を去る際には自分の中の何かを残して行く。たとえその場所を去っても、私たちはその場にと止まっていると言ってもいい。そして、その場所に戻ることでしか見つけることのできないものが確かにあるのだ」

 

「ある場所へ旅するということは、それがどんなに短いものであっても、人生にわたって影響を及ぼすような私たち自身の魂へと旅するということなのだ。しかし、その魂への旅によって、私たちは自己の孤独と向き合わなければならないのだ。」

 

このあたりの文章は唐突にロマン・ロランの『ジャン・クリストフ 』を想起させてくれたり楽しい。そして十分である。


映画ではリスボンの市街を見渡すカフェがでてきたり、随所に街の美しさが溢れた映像を楽しませてくれる。ライムント役ジェレミー・アイアンズ。アマデウ役にジャック・ヒューストン。アマデウを慕う妹の後年の役者がシャーロット・ランプリング、神父役にクリストファー・リー、アマデウの恋人にメラニー・ロランフランス、アマデウの恋敵のジョルジにブルーノ・ガンツなどなど名優が揃う楽しみもある。


しかしやはり1974年のポルトガルの無血革命であるカーネーション革命だ。
考えない日本人にはほとんど縁のない世界だ。
しようがない、腐りきったコロナのドブで喘いで生きるしかないか。

退屈なライムントはポルトガルでのアマデウとの内面的な出会いによって劇的な変化を起こす。退屈な男ではないと眼科医の女性に告げられたのだった。めでたしめでたし^^

この退屈な拙文の最後に映画好きの評論家粉川哲夫の言葉を記録しておく。

「もう日暮れて途遠しだが、住むならリスボンしかないと思っている。リスボン野垂れ死にというのもあるな」

彼は親父の遺した東京ゲーテ館でのうのうとふんぞり返っているが。
そういえばほかの北欧ドラマでも別荘地としてポルトガルに憧れる台詞があった。私には無縁の話^^。

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