pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

竹取幻想7

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夢 四


 はるかに未来の遠い空の彼方においでになる貴方に、この平安の皐月の青空は如何お見えになるでしょうか。私よりずっと後に偉業を成し遂げられた世阿弥様のお言葉をお借りし次なる拙歌を座興に作りました。春、花の溢れる頃。

 

    心より心に伝ふ花なれば
           散りてもかなし花こそあはれ

 

 花々の季節はいま夏に移ります。嵐山の橋の上から桂川河畔から見晴かす山々は新緑の色々に染め上げられ、風も空も水面も碧く澄み渡り輝くこの皐月の香りは、如何なる名香にもまさる清々しさに満ちあふれております。

 

 前置きが長くなりました。
私は保安二年、父石清水別当光清、母小大進の娘として生を享け建仁の御世までながらえました。八十年余の私の生、その余りに長き命は愛する人たちの死を幾度も経験しなければなりません。それは残酷なことでもありました。絢 爛たる王朝の文化の粋を存分に呼吸しながらも、宮中には隠微陰惨を極める争いごとにが、外に目を転じれば飢饉や天災、疫病の蔓延・・・末法の世そのままの 或いは地獄絵図そのままの惨たらしき姿が溢れていました。政争は次第に平氏源氏の争いとなり殺し合い、帝さえもその激しいうねりに大きく翻弄されていきました。

 

 そんな人生の中で、和歌や琴を習いきらびやかな内裏に思いを寄せていた若き日は喩えれば春の幸せなひとときでした。また後に太皇太后とあらせられた多子様にお仕え申しあげた日々は充足の夏でありました。歌を詠み交わす日々・・・そんな中に私は嫁ぐのですが子ども二人を遺し夫は早世しました。やがて私の心を捧げる御方が現れてきたのです。源頼政様、薩摩守忠度様。

 

 頼 政様は以仁王の宣旨を受けて挙兵なさったと聞き及んで居りますが、私は頼政殿ご自身その宣旨を画策した可能性が大きいと存じております。宮中の鵺退治など で若くから勇名を馳せながら、あくまで清盛にへつらい出世を望んだという世評も頼政殿の真実のお心は逆でありました。彼は摂津源氏長老であり平家打倒の急先鋒、魁として挙兵、策ならず宇治平等院で自刃、七十七歳 のお命でした。

 

 薩摩守忠度様は一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い四十一歳で討死なされました。平家一門と都落ちした後、六名の従者と都へお戻りになり、俊成様の御屋敷に赴きご自分の歌が百余首おさめられた巻物を俊成様に 託されたのでございました。『千載和歌集』に撰者・俊成様は朝敵となった忠度殿の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして 納めなされましたが、俊成様のみならず、口惜しきことでございました。彼も私も歌の道に於いて藤原俊成様を師と仰ぎ一生を歌に精進してまいりましたことは言うまでもありませんが、頼政殿の御歌もまたお見事と言う他にありません。式子内親王様や小督局様、建礼門院様・・・思い出すだにお懐かしう涙が溢れます。

 

 和歌の道において私は斯様に素晴らしき方々のお導きを得て有難きことこの上ない身の上でしたが、もうお一人、ご身分こそ低けれど、その御歌と御心の広さ深さに於いて孤峰のごとく聳え立つ御方、西行様には若き日より折にふれては御歌のお導きを賜りました。
これより私、小侍従の拙い思いで語りをお笑いになりながらお聞きください。

 

 

 

 

世阿弥花伝書

「その風を得て,心より心に伝ふる花なれば,風姿花伝と名付く」

 

ここに於いて世阿弥の花は芸の花となるが、それまでの和歌文芸としての言の葉の花が能という芸に敷衍し高められた。

 

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