pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

竹取幻想57

 

 文徳さまが私の前に座りました。

「小侍従様、今日は私どものためにお時間を戴いてまことに恐縮の次第です」

 間近で文徳さまのお顔を拝見するのは初めてです。柔和な微笑と誠実さ、深い知性に惹かれた私は、この際だからと多少不躾ながらいくつかお尋ねしました。西行さまとお子さまとの出会い、お子さまたちとの暮らしぶりなどもう少し知りたかったのです。それは文徳さまを更に知ることでもありました。

 

 「西行様という方がどんな人か、恥ずかしながら昨日の難波津の舟の上で兼綱様にお教えいただき始めて存じ上げた次第。自分は仏教はじめ道学やら儒学やら学んできた自負があったのですが、西行様を浅くしか理解できなかったことを愧じております。

 

 彼は春風駘蕩の趣を凍てつく真冬にも漂わせ、破衣にして蓬頭、店にふらりとやってきては食事を美味しそうに召し上がり、子どもらと遊んでともに寝たりと、その飄々たる風格は単なる乞食僧に見えながらどこか愛すべき畏敬すべきものでした。兼綱様に教えていただき、彼が道を求める人間であったと、はたと諒解できました。しかし、単なる求道者ではない。こうして子どもたちを連れてきて私に預けるなどというのは、たとえ求道者であっても己にのみ拘泥する者にはできぬ事です。これは初めて文祐を連れてこられた時の西行様のお話ですがお聞きください。

 

 

 この子はわしと旅しながらひと月ほどまったく言葉を発しなかった。眼も死んでおった。それがな、ある日のこと、小川でわしら二人身体を洗っていた時じゃ。犬丸、この名は私がつけてやったのじゃが、三間ほど離れていた犬丸が、ああ~という声を挙げた。駆け寄ると草むらに痩せた女の死体が転がっておった。おそらく病で死んでここに捨てられたのだろう。犬丸はただ、ああ~~と叫ぶのみじゃったが、わしが初めて聞いた犬丸の声じゃった。それはまさに肺腑から絞り出すような呻きとも叫びともつかぬ声じゃった。わしは彼女を河原の上の林の中に葬り経を唱えた。犬丸は脇でただ涙を流しておった。

 

 そんな事があって数日後のこと、わしは初めて犬丸に家族のことを訊いた。犬丸が四歳の頃の冬、父親が酔った挙句に母親を殴る蹴るの末、母親の髪をつかんで外に出たまましばらく帰らない。帰ってきた父親に母はと尋ねると答えぬまま寝てしまったそうじゃ。以来母は消えてしまった。半月ほどしたある日、いつものように犬丸が川に水汲みに行ったときに積もった雪が崩れた間から赤い布が見えて、もしやと雪を払いのけると、現れたのは変わり果てた母親じゃったそうな。 

 

 それから犬丸は言葉を失って、飲んだくれの父親と暮らした。早朝から夜中まで毎日わずかな食事だけで働いていたある日、人買いが来て、酒を買うカネ欲しさだけの父親に売られた。自分が売られたという事もどういう事かわからなかった。ただもっと恐ろしいことが起きるのかという恐怖だけだったらしい。それが犬丸の六歳の頃の出来事じゃ。今では普通に話もできるし、なかなか賢い子じゃて宜しく頼み申す。ずっとこんなわしと一緒では不憫じゃて。子どものうちはできるだけ家で過ごすべきだしな。わしは生来動き回る質でな。これでは乞食坊主が増えるだけじゃ。あはは。いや笑って済まぬ。わしの勝手な言いぐさばかりで怒らんでくれ。

 

 そう西行様はおっしゃいました。

 子どもたちは勿論みな文祐と同じく非情で過酷な道を歩んできました。しかし、文祐がきた時とそのあとの子が来た時の違いは文祐の存在でした。文祐は私に慣れ親しんでくるに従って積極的に手伝いを覚え協力してくれるようになりました。増えてくる子どもたちを弟のように可愛がってくれました。いや兄弟そのもの。そして文祐がその子たちを仕事も生活も実によく支えて面倒をみてくれたのです。店での役割をも彼が与えてくれました。子どもたちは自分のなすべき役割を理解すると前に向かって進むことができます。店の掃除、寝床の掃除、店の前や周囲の掃除、食材の買い出しや、食材の仕込みや食器洗い、洗濯などいろいろ幼いながらも上の子を見習って。文祐はいまは調理の手伝いもできます。そして子どもたちは町の皆さまにも温かな励ましをも頂くようにまでなりました。ありがたいことです。

 ただ、この子に手伝いだけさせているだけでいいのか、ふと気づいたのです。日本では各地のお寺で子どもたちを教えているところがあるとも聞いていました。学ぶことは万人に必要である。人は蒙のままではいけない。文祐が私や店になれた頃、私は店を閉めたあとに学びも大事と教えて、文字から教え始めました。もちろんその後増えていった子どもたち全員です。早朝から夜まで一生懸命手伝ってくれた後疲れがどっと出るのを耐えて、彼らは勉学にも熱心に取り組んでくれました。そして夜中ぐっすり寝ている子どもたちの安らかな顔を見ながら、ふと気づくと私は泣いていました。私はそんな彼らを見ていて実は初めからずっと嬉しく幸せだったことに気づいたのです。それは私の人生の中に自分にとっての大きな価値を見出した瞬間でした。北宋開封を命からがら脱出して以来綱渡りの人生が続きました。南宋杭州でもたびたび捕縛されそうになりました。明州に逃れ、そこで情の深い酒店の主人に出会いようやく落ち着いた暮らしになりましたが、仕事を覚え、学問を続ける以外、私に余裕はなかったのです」

 

 文徳さまは淡々とお話なさいます。

私が文徳さまのお話に涙しながら聞き入っているうちに、いつの間にか文祐さまもそばでお聞きになっていました。いや、気づくと皆さまが近くで静かにお聞きになっておられたのです。