2014-10-02 送り火 菩提寺は曹洞宗である。 今夏の新盆は寺としては初めて合同法要となった。 五人の僧が鳴り物数種と共に唱和する。 新盆を迎える者が増えすぎたためである。 遠く盆踊りの盆唄が市内に流れていたが、法要中は止んで小高い山の境内の蝉しぐれの中に完璧な唱和が50分は続いた。 私は無宗教者であるが、父が生前早い時期に墓地を購入していたのである。 その父が3年前、母は昨年亡くなった。 私は両親の死に接し、急に菩提心を求めたのではない。 今もって不逞不肖の息子である。 生に即す生死世界、就中命の実相を知りたかった。 仏教の教えは無学な私ではあるが、もっとも近いと感じている。 しかし、知りたいという欲求は消えた。 知る限界を知ったからである。 自分自身が、この数年あの癌ではないか、その癌ではないかとか健診で疑われ、ああそうですか、くらいの感慨しか得られなかった。死への感覚が麻痺しているのである。 死にたいとは思わない。しかし、死への恐怖もない。それが両親から得た答えだった。 思えば友人・同僚・親族、多数の死を見てきた。 無念、無情の死もあった。 しかし、それはおのが範囲の、謂わば個人的な死である。 世界には無念、無情の死が溢れ沸騰せんばかりである。 人間が豊かな文化を創造する一方、如何に壊れた精神と世界を作り出してきたか、それは狂気そのものである。 ガザの子どもが脳をイスラエルミサイルの破片で吹き飛ばされている画像がある。 父親が号泣しながらその亡骸を抱いている。 イスラエル極右政権内には女性支持者らが「ガザの女子どもを皆殺しにしろ」と叫んでいる。 政略的にイスラエルに囲い込まれたガザの民衆をなぶり殺しにしているのだ。 これは「戦争」とさえ絶対に呼べない、国家による集団リンチなのだ。 宗教は時として残虐非道を演じるが、それは人間の壊れた「精神」ゆえである。 一抹の幸いか、日本仏教のそこまでの非道は現れていない。日本キリスト教も弾圧されながら自ら非道に走ることはなかった。 国家神道のみが政治利用されて国家を破滅させる一翼を担わされた。 暑い本堂内にも時折風が吹き込み、蝉時雨と般若心経 が融け合い、風に乗って流れていった。 一切何事も無く。