うたたねに過ぎゆく春や初夏の風
夢にも思ふ去りてし日々を
ゆく春のかたみに見ばや梅の実を
ゆく春は駆け足にして真夏日や
春の闇狂ふ眼の隠れゐる
真夏日の今日の日曜、庭仕事も夕方として、ソファにひっくり返っている。保護所で浴びた狂気もようやく拭い去り、窓外の輝く緑に目を休ませながら書いている。薔薇の朱花もベルベットの光沢を放っている。
天気
(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。
私は無宗教だが、この詩のような「朝」はまさに今の朝だろう。
西脇順三郎がこの詩の下絵としていたのがキーツの「エンディミオン」だというのは後年知った。つまりパクリ。
つれづれなるままに、日くらし、硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
吉田兼好の『徒然草』冒頭の一節で、習わぬ者は居ない周知の文であるが、学校では表層的に文法的古語「解釈」で終わる。
私にとって実はこの文章は怖いところがある。
「つれづれなるままに」は、手持無沙汰で退屈とか寂しいという、一見、「高等遊民」的な老人時間を表して欠伸をしながら兼好が机に向っている姿を思い浮かべる。
しかし、
「あやしうこそものぐるほしけれ」
という末尾が付くと、「あやし」「ものぐるほし」のニ語に戸惑う。
「あやし」は、異常だ、不思議だとかの意味を当てる。
[ものぐるほし」は、狂おしいという意味である。
この口語訳として「異常なほどに狂おしくなるのだ」と、それで、ああそうか、と高校生の頃は流していた。優秀だった国語科担任がこの訳をどこか苦しそうに伝えていた事を思い出す。そんな訳では腑に落ちないものを理解していたのだろう。
「異常なほどに狂おしくなるのだ」
つまり、私の愚考では、つれづれがそれを誘引する。手持無沙汰でやることの無い「時間」に向き合う時に、テレビを眺めていたりネットだなんだと「時間」を潰すこと「時間」を忘れる事など無い場合に禅僧なら「空」を体現するのだろうが、リアリストの兼好は自分の内に向き合ったのだ。
「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
なぜ、「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれ」ば、「あやしうこそものぐるほしけれ」となるのか。
自分の内に潜んでいる「狂気」に抗っていたのだろう。それは「時間」を相対化し紙に書きつける事と同じであった。記憶とは時間だ。思い浮かんだ事柄をあれこれ兼好法師流に解釈を加えて書いていく。書いている間は「時間」を忘れる事ができる。その繰り返しであった。
何もする事が無いというのは恐ろしい状態である。
無自覚ではすぐさま「狂気」に飲み込まれる。
ま、現代の老人にはテレビがあるので「狂気」に苦しむことは無い。精神的な「安楽死」を立派に遂げている。
昨日、保護所をやっと放免になった若者からラインにメッセージが入っていた。
出所祝いを送り、彼が私の勤務先を見学したいと言うので、Welcome!と案内した。
彼は私の連絡先を書いたメモを退所の日に口に入れ、退所寸前の自分の服に着替えるとき、とっさにポケットに隠したという。友人の連絡先も入っていたという。
「お!やるねえ!それだけで高校合格認定!」
「ありがとうございます笑
いやーでも、先生が居なくなってから退所まで長かったです(汗)
ずっと先生と連絡取りたかったんで」
明日あたり来る予定となった。
また、来週半ばには彼の仲間も出所で、3人で美味い店に集まろうと言うので
「おい、始めに言っておくが、俺はビンボー教師だぜ、割勘だぞ」
「いやいや、貧乏だなんて
先生に会えるだけで嬉しいです😃
先生との出会いに感謝してます」
中学校の卒業式も出られなかった彼は、お世辞もきちんと言える大人となった。彼らの進路の相談に乗る事になるだろう。
狂気もカンケイ無いモン太郎とハチ(^^♪