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pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

父の思い出 1

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今日、父の4回目の命日が巡って来た。91歳の自分の誕生日に脳溢血で亡くなった。

生前自分は120歳まで生きると公言していた割に、あっけない最期だった。しかし、50才で糖尿病を患い、入院した割にはよく持ちこたえたと思う。

糖尿病発症後は食事療法、運動療法、服薬全てに厳格だった。息子の私も有り難い遺伝をいただき、60過ぎて糖尿病と相成ったが、とても真似のできる生活節制ではなかった。特に早朝夕刻に2時間速歩することは未だに真似出来ない。

几帳面さ、自律に於いて、おそらくこれらの資質は海軍以降船乗りを続けた職務性だろう。
俺は初見で相手が船乗りに向き不向きか分かる、と話していたが、船底板一枚下が地獄であるという仕事柄、乗組員の資質が皆の生死を左右するのであるから、その相手を見極める目は必須だったのだろう。
そんな同僚たちの中で、父が純粋な精神を保てたのもまた道理であった。相互の信頼が全ての職務であった。

旧 制中学を素行不良で中退した父だったが迫りくる戦争に自棄的となり、中学生の分際で酒タバコはおろか仲間と芸者をあげて座敷遊びに蕩じたのだ。ご丁寧に写 真まで遺している。放校処分後もなに食わぬ顔で登校するフリをした父に、キセルをふかしていた祖父の一言「何しに行く」で、父は家出を決め、東京に出た。 当初は俳優に成ろうとしたが既に撮影所は閉鎖、諦めて橋の下を眺めたら予科練が漕艇訓練をしている光景を見て、海軍で飯を食おうと決めたらしい。

こ こで、運が良かったのは、英語が出来るというので通信兵に廻されたということであった。船の中の安全な場所に通信室があるらしい。通信兵はまた殴られな い。怪我させたら船は動けなくなる。それでも僚艦が次々に撃沈されて行く中で、転船もしながら敗戦直前に呉沖に停泊中撃沈され、当人は失神していたらしい が同僚に港まで抱かれて行ったらしい。その同僚は命の恩人として生涯の友となるが、その船で生き残ったのはその友人と父の2人だけだったという。

父は足の甲が皮一枚でぶら下がっていたらしい。手術でくっ付いたのだが、麻酔無しで再び失神したらしい。入院中、原爆を知ったという。その後の広島の悲惨な光景の事は父も一度しか話さなかった。

復員帰郷後、結婚相手を探すことになるが、見合いを十数回した挙句に母と出会った。敗戦直後のこと、飢えを防ぐに農家との見合いを重ねてはたらふく食べていたらしい。なぜ母を見染めたかというには、賢い女性だったというが、恐らく見合いも飽きたからだろう。

器用な父で、結婚後は竹細工をし儲けていたらしい。
数年で船会社が復興して再び船に乗った。本社が大阪なので、生まれていた私も連れて大阪暮らしとなったのである。



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                       命日の座布団の上ハチ眠る