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「われわれはみんなペストの中にいるのだと。今後はもうペスト患者にならないように、なすべきことをなさねばならぬのだ。それだけがただ一つ心の平和を、あるいはそれがえられなければ恥ずかしからぬ死を、期待させてくれるものなのだ」
心の平和と恥ずかしからぬ死、これがタル―のモラルである。これらの実現がどれほど難しいかは私たち老人世代は理解可能なはずである。
心の平和を宗教に頼らず獲得できるか。
おそらく信仰はその点強力な力を持つ。では信仰とはなにか。
また、恥ずかしからぬ死を日本の病院や施設であるいは自宅で迎えうるか。
私たちの大半はおそらく屈辱の中で死ぬのである。それは私が見てきた病院やいくつかの施設の実態で証明できる。
その前に「恥ずかしからぬ死」とはどのようなものか。
それはタル―の以下の言葉に示されてくる。
P302
「人を死なせたり、死ぬことを正当化したりする一切のものを拒否しようと決心したのだ」
「誰でもめいめい自分のうちにペストを持っているんだ。なぜかといえば、誰一人、まったくこの世に誰一人、その病毒を免れているものはいないからだ。」
「実際、リウー、ずいぶん疲れることだよ、ペスト患者というものは。しかし、ペスト患者になるまいとすることは、まだ、もっと疲れることだ。・・・略・・・ペスト患者でなくなろうと欲する若干の人々は死以外にはもうなにものも解放してくれないような極度の疲労を味わうのだ」
P303
「さしあたって、僕は、自分がこの世界そのものに対してなんの価値もない人間になってしまったこと、僕が人を殺すことを断念した瞬間から、決定的な追放に処せられた身となったこと、を知っている」
この最後の言葉はやや難しい。
つまり、「この世界」が「自分の生きている社会は死刑宣告という基礎の上に成り立っている」という殺人を諒解する前提ならば、それを拒否する者は「この世界」においては無価値な存在となるのである。つまりカミュにとって「恥ずかしからぬ死」とはこのようなモラルに於ける「死」なのだ。
死刑廃止条約に署名した国々は単に残酷さや道徳のみならず、カミュのこうした理解を組み入れているはずである。なぜなら、メモ4で引用したカミュの社説の一部を思い浮かべれば十分である。
コンバ 社説 1945年8月8日
しかし当面は、次のように考えることが許される。すなわち、人間がこれまで何世紀も見せてきた破壊への情熱の最たるものをこのように称揚することは、ある種、不謹慎であると。