pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

酷暑つれづれ

水浴びてそれでも暑しエアコンへ



猛暑?
酷暑?


昼間かっら水を浴び、居間のエアコンに逃げる。

朝は梅干しの3度干し。
瓶2つ分を竹笊に菜箸で一つずつ丁寧に置く。梅の皮は薄皮饅頭より繊細で、破かないように瓶から取り出すが、面倒なら手でやれば良い。
しかし…
老人となった今、手先の巧緻性が問題で、その訓練も兼ねて菜箸で行う。

瓶の下に行くほど次第に紫蘇の葉が絡みついた梅が増えるが、丁寧に葉を取り除く。

日差しの中の作業なので日に焼ける。  


子ども時代は夏は海と川が全てだったから、全身真っ黒けで、それを見た親や祖母らが笑っていた思い出がある。

高校時代は陸上でグラウンドを走ったが、水分補給とかの注意など無かった。暑いと言っても、今よりは涼しかったのだろう。

喉が乾けば水道でがぶ飲みし、家から持参したレモンを皮ごと囓っていた。

もちろん走るに飽きたら、つまり全く自由気楽な部活だったので、午後は海て泳いでいた。
浜には母親の懇意にしていた家が結構あったから、脱衣所として使わせてもらったり、焼き魚や焼イカ、西瓜などご馳走になっていた。
その、煙や匂いが懐かしい。

その浜に住む漁師さんの娘さんと仲良くなったりしたが、今、消息は不明である。 浜に面していた町は跡形もなく津波に飲まれたのだ。
漁師町だが、夏は海水浴場として賑わう浜だった。

漁師のお父さんはお邪魔するといつもニコニコ迎えてくれたものだ。
彼女は気立ての良い明るい娘さんだった。
私が生まれて初めて「デート」した女性であったが、以前書いたように私は全くウブな男、言い換えれば鈍感で、彼女と仙台にデートした時も手をつなぐとか全く考えもしない唐変木であった。しかし胸のドキドキ感があったことは覚えている。
仙台に行く電車に乗る前、駅でなぜか叔父と出会った。叔父が笑いながら私に小遣いを呉れたが、その意味もわからなかったものだ。
その母方の叔父は胸にステント装着している以外まだ健在だが、どうやら認知症が始まっているようだ。何十年も前に亡くなった祖母が今亡くなった!などと電話してきたり…
叔父は高校は私と同じ。
父親は戦死し、彼の母である祖母が戦中戦後と働き、私の母ともう一人の叔父を育てた。
彼は電通大に行き、助手として勤務した後に帰郷してコンピュータプログラムの製作所を始めたが、武士の商法、大企業にいいように使われた挙げ句に倒産したのだった。中国のロケットのプログラムは俺が作り、打ち上げ時に招待されたとかの話が自慢だった。

とりとめのない思い出話、申し訳ない。
記憶を少し残したいだけ。

そう、酷暑。
さすがに昔のようにジリジリと肌を刺すような日差しには弱くなった。
窓の外のカサブランカも心なしうつむき加減である。