第六段「芥川」
むかし、おとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来け り。芥川といふ河を率ていきければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこに問ひける。ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知ら で、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて、おとこ、弓胡(ゆみやなぐひ)を負ひて戸口に居り、はや夜も 明けなんと思つゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴るさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て 来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
白玉かなにぞと人の問ひし時
露とこたへて消えなましものを
さて、この段を「恋」として読むかどうか。
「女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりける」のであるからまことに立派な恋である。(よばふ、とは求婚すること、また、夜、恋人のもとへ忍んで通うこと。ここでは勿論求婚の意)
長年求婚し続けて叶わぬものを最後には文字通り略奪してしまう。
しかし、この段が殊更に美しく感じられるのは男の「想い」の直向きさ、その純な恋心であろう。
また、その美しき儚さであろう。
掛け値なし。
をんなも男も打算がないのである。
「ああ、彼女が露を見て私に何かと尋ねたっけなあ、露もしらぬうぶな彼女だった・・・私がさらってしまったばかりに可哀想なことをしてしまった。いや、そ うじゃない、そう彼女が問うた時に、ああ、あの儚い露と同じように私達はこの世からきえてしまいたかった・・・」(和歌 巴琴勝手訳)
露のごとくきよらで真珠のように美しい。
女にも何の衒いもない。全くの自我執着がない。全くの素直さでおのが運命に従う。
勿論長きにわたり求婚されていたのだから、男への何がしかの感情はあろうが筆者の抑制簡潔の文によってその感情の深い沈黙が逆に照射される。
見事な名文、抑制の美学。
をんなは男を深く愛していたのである。
略奪であるが略奪ではない。
ある種「道行」のごとき愛の逃避行と言ってよいのではないか。
白玉かなにぞと人の問ひし時
露とこたへて消えなましものを
この歌が命の物語であるのはいうまでもない。
恋歌の絶唱である。
我らが古人、見事な恋を美しく描き切った。
なに?巴琴にそんな経験はあるのかって?
ヤボなことです。
無いで済むなら、オトコカモメの女難さんとアダ名された巴琴は苦労がない。
未だに女難は続く・・・
なに?具体的に書け?じゃないと面白くない?
命がいくつあっても足りなくなるのでやめておく。
そうでなくとも残余の命。
風前の露の灯りの余生。
と、今夜は馬鹿話になったところでお休みなさい。
(なお、この第六段の末尾にこじつけがましい記述があるが、無視。
伊勢物語合作説なら在りうるつまらぬ追記みたいなものです。)
オマケ
「Sarabande」
https://www.youtube.com/watch?v=bWzUdGNa46I
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