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4月から5月半ばまでよく歩いた。
47万歩。
まぁ一日平均1万くらいだからたいそうな数字ではないが、殆どが山歩きという事で、私としては上出来である。
飽きっぽい私がなぜ続いたか。
春から初夏にかけての山歩きは極めて快適だった。新緑と花。野鳥や虫たちの動きや声。そう、山だけではない。渓流沿いも歩いたが、今回は河鹿蛙の美声をしっかり堪能できた。さすがに美しく、せせらぎや風の音に混じって心が洗われる。
長歩きの度に現役時代、もう20数年前になるが、悪化した鬱で休職を余儀なくされた事が思い出された。悪夢としか言いようがなかったあの頃、ようやくベッドから離れて歩き始めたら転倒した記憶。信じ難い記憶であった。
休職中に歩き始めた。
自殺に追いやられた同僚たちが影となり背中を押してくれた。
何としても定年まで耐えなければならなかった。その為にも鍛え直さねばならなかった。
幸い、自宅は山に在るので、散歩コースは豊かだ。
少しずつ距離を伸ばしながら、同時に自然に向き合う事ができた。
復職後に転勤し、睡眠薬服用にも関わらずクルマで90分の通勤をした。田んぼの中の廃校予定3年後の職場。職員は既に無気力であり、私は生徒と遊ぶ事と体力回復に努めた。しかし、とうとうある朝の通勤途上に自損事故を起こしてしまった。クルマ前方大破だったが自損なのが救いだった。私はちゃちな(後で見て気づいた。安いクルマは乗るものではない)エアバッグを越えてフロントガラスに頭をぶつけて気を失った。
複視と耳鳴りの後遺症が残った以外、持ち直したが、その年度でまた転勤し、最後の職場の定時制高校に異動した。
ここでも、というより、前の虐め殺しの養護学校よりは良いが、ヤクザ顔負けのボスと、取り巻きの香取り線香の如き組合のクズ教員を相手に8年やりあった。
私は懲りることが無い。根っからお目出度いのである。
ボスはレスリングで日本代表を狙えた男で
気に要らない教員を絞め技で虐める情けない奴だった。
始めから従順でない私に敵愾心を燃やしたが、私は実力行使は出来ないように手を打っていた。
この男、学生時代オリンピック出場までもう少しというところだったそうで、それが逆に自慢でもあった。
根は単純。思考も同様。
ただ、目先の欲は激しく、ある年、修学旅行不参加を申し立てた生徒の修学旅行積立金からキャンセル料金を業者に取らせた。
そのカネの行き先を私は追及し、旅行会社の埼玉支社に出向き、名古屋の本社に談判した。
結論、使途不明。
県教育局や県会議員ともやりあった。
全て、文書でまとめ保存してある。
彼は定年待たず退職。
私は2年後定年退職した。
校長教頭は私の自宅に謝罪に来た。
校長が謝罪に来たのは養護学校校長以来であった。
もちろん、校長教頭と、名のつくのはろくなものではないが、定時制高校に於いては組合のウラボス気取りが最低のクズだった。この趣味人倶楽部にヘイト撲滅とか「正義」を気取るクズがいるが、同質で、ネトウヨ爺さんの方がまだマシという悲惨。表は正義、内実は幼稚で権力志向なのだった。
「巴琴さん、大学はどちら?」
「○○大学だ。」
「そうですか、現役合格?」
「いや、イチロー」
「あ、私は△△大学ですが現役入学です!」
余りにアホな会話なので鮮明に記憶している。
数十年の勤務でこんなアホな会話は初めてであったが、コイツが組合で県交渉なのだから良くなる訳がない。職場ではレスリング爺さんの褌担ぎ。つまり使途不明金の連帯責任を負う男となった。
退職辞令交付。
オマケに永年勤続感謝状。
バカバカしいのでゴミ箱直行。紙の無駄。
この頃、体力もやや向上していた。
念願だった秋の近江旅行が出来たのは退職年度の記念休暇あったからだ。その湖東三山巡りを徒歩で行えたことは自信となった。
退職直前に東日本大震災が起きた。
前後して、両親の介護がでた。父親は震災後の6月に帰っていた故郷であっけなく亡くなった。母を、引き取り、その後母は入院。亡くなるまで施設や病院を徒歩で見舞いに行った。これも体力をつけた。奥吉野の更に奥、西行庵まで歩けたのもそのお陰だ。
旅行は近年(前からだが^_^)金欠のために近場の信州安曇野と、信濃追分になったが、もちろん歩くのが基本である。
クルマでは見落とす光景が沢山ある。
特に白馬と安曇野は素晴らしい。
さあて、歩いてくるか。と、思ったらまた雨が降り出した。やれやれ。
ハチは自分の静かな領域を探して、主に和室に陣取り、ミーは居間のソファを一つ独占して寝る。このモン太郎はとにかく甘ったれで起きている時もすぐに膝に飛び乗って寝る。夜はかようの始末で、寒くなると布団の中に。暑くなると布団の上。しかも出たり入ったり。その度に中に入れてくれれ!窓を開けてくれ!と煩い。私の寝不足はコイツのせいだ。