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以前シアターイメージフォーラムで「ユーリー・ノルシュテイン《外套》をつくる 』を観た。
ごぞんじの方も沢山いらっしゃるでしょう。圧倒的に美しい創作とその現場、そしてユーリー・ノルシュテイン本人を観た。
30年『外套』を完成できずにいるその意思とは、おそらくゴーゴリ―の原作の魂を完全に表現したいからだろう。
http://www.imageforum.co.jp/theatre/movies/2275/
彼の作品は詩である。
詩。
詩もどき、ではない。さすがに文学美術音楽など傑出した偉人を出したロシアのアニメーション作家で、文学や美術や音楽、全てにおいて美しい作品を生み、愛されてきた。
嬉しいことに美は世界の共通言語である。有り難いことである。
「クレア・キッソン 『話の話』の話 ユーリー・ノルシュテインと幸福な時代の思い出」
この上田氏の優れたブログを案内として引用させていただく。
「戦争の終わりに、叔母が前線から帰ってきました。赤ん坊を亡くしたばかりで、まだ出るお乳を、私に飲むように、といってくれたのでした。眠る前に母親が「灰色の仔狼がやってくる」という子守歌を歌ってくれました。廊下の端には、通りに出るドアがありました。そのドアの向こうには永遠の幸せ、明かり、話ができる猫、砂糖をまぶしたパンが待っているかのようでした。当時は思い出だけが永遠だとは知りませんでした。人生をまるごと記憶することになるのだとは。戦争から帰還できなかった兵士、窓の下の木、母親が歌った灰色の仔狼の子守歌、廊下のドアの向こうの明かり。(ノルシュテイン『話の話』のエピグラフ)」
母親の歌う子守唄を記憶している人は多分殆どいない。
にもかかわらず、その「思い出」を持つのは親としての追体験によるのだろう。記憶の重なり・・・親と自分の記憶の重なりである。
幸福な「思い出」である。
そして重要なのは、それが真実だということだ。
思い出とは思いを表出すること。
胸中の深海深くに静かに沈んでいた「思い」である。
「一瞬の感覚から、すぐその場で、何か永久性のある精神的なもの(これこそ本当の現実なのでありますが)を引き出さうとする困難な仕事、その仕事に参加する夥しい数の記憶のこんがらかった現はれでありますが、―もう一つ、その出発点となってゐる、感覚そのものの豊富さに依ると言わなければなりません」
堀辰雄「続プルースト雑記」
ユーリー・ノルシュテインは若くして日本の文芸とくに俳句の世界を深く感じ取っていたらしい。そんな彼の「絵」が美しくないはずはない。詩をアニメ化したわけだ。商業主義アニメを否定する気はないが、興行成績に追い回されては彼のような作家は生まれない。