pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

雷鳴と辻潤

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先日の夜の雷鳴は地を這うように響いてきたが、それは後に暴風を呼び起こした。

今春の桜の早咲きも梅の開花に合わせて例年なら入学式の頃に満開となる風物詩になるはずが、卒業式の頃満開となった。

早々と春の庭の木々や草花も大半は咲き終わって、スノーフレークの代わりに鈴蘭がもう咲き揃っている。鈴蘭は香りを白いキンギアナムと競っている。

スノーフレーク花言葉は「汚れなき心」だそうだが、鈴蘭は「意識しない美しさ、純粋」と、両者ここでも競い合っている。いや、「意識しない」ことが前提なのだから競うという理解は誤っていた。

鈴蘭の別名は「君影草」(きみかげそう)というらしい。なかなかに趣のあるお洒落な別名だ。バルザックの『谷間の百合』なのである。

スノードロップスノーフレーク→鈴蘭と、それぞれまことに相似た花で季節をリレーする。

花の話から始めたが、いや、春雷から暴風という記憶から私は辻潤を思い出していた。

 

東京市の昏い下町を少年の息子まことを連れて彷徨う辻潤を思う。震災後の、バラックの町の細道には、路地から吹き込む風が親子を吹き荒んでいる。びゅうびゅうと吹き荒む風の音よりバラックの軋む音が切なく響いていただろう。

 

父は虚無僧姿で息子を連れて、ただそんな闇の道を尺八を吹きながら歩く。尺八は潤が子どもの頃から目覚めた友である「楽器」だった。尺八の曲に虚空鈴慕というのがあった。虚空を吹くのである。鈴は「れい」と読むから転じて「れん」となり「虚空恋慕」とも言うらしい。己を孑孑(ぼうふら)以下と規定した純人(私の辻への造語)辻潤にふさわしい曲。その尺八が暴風の音やバラックの軋む音の中にかすかに響くのだったろう。

 

こんな親子の姿ほど「過激」なものはない。 

 

少年まことはこの親をどう見ていただろう。後年、まことは父である辻潤を描いたが、生粋のディレッタントでシャイなまこと(父そっくり)は、おそらく自分の心の奥底までは披露できなかったろう。あまりに巨大でかつ無の存在だった。本来無一物が襤褸を着てそのまま歩いているのだ。辻潤は狂人扱いされるに及んだが、それも自認した。自分は痴人であると。友人であったはずの谷崎潤一郎なども彼が門付けに来ると追い払う始末だった。しかし、辻潤の何番目かの奥さんだった松尾季子は、娼婦が辻の尺八に耳を澄ませ多くの喜捨をくれたり、子どもらが童謡の曲を吹くと喜んでついて来て幾ばくかの貰いもあったとかいうエピソードを紹介している。即ち「純」なのである。そんな「純」な人たちがいたのだ。

 

そんな純な辻の精神の一例として、いち早く宮澤賢治春と修羅』を発見しまた世間への紹介がある。なんびとにも属性を重視する「普通」の精神なら無理であった。

 

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原始林の香いがプンプンする、真夜中の火山口から永遠の氷霧にまき込まれて、アビズマルな心象がしきりに諸々の星座を物色している。――ナモサダルマブフンダリカサス――トラのりふれんが時々きこえて来る。それには恐ろしい東北の訛がある。それは詩人の無声慟哭だ。
 屈折率、くらかけの雪、丘の幻惑、カーバイト倉庫、コバルト山地、霧とマッチ、電線工夫、マサニエロ、栗鼠と色鉛筆、オホーツク挽歌、風景とオルゴール、第四梯形、鎔岩流、冬と銀河鉄道――エトセトラ。
 若し私がこの夏アルプスへでも出かけるなら、私は『ツアラトウストラ』を忘れても『春と修羅』とを携えることを必ず忘れはしないだろう。

                 惰眠洞妄語より
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殆どと言ってよいほど宮澤賢治は生前理解されなかったが、既に辻潤がいたのだった。

こう駄文を連ねてきて私自身に気づくこともある。私の好きな作家や詩人はみな「文壇」とは縁のない人々だったことに。比較などおこがましいに尽きるが自分も集団には縁がなかった。求めたいなど一切思わなかった。

 

久しぶりに夜更かしした。最後に低人さんのブログから無断で引用しよう。もう眠いからこれで終わり。


 人は生まれながらその人として完全である。
その人として成長し、その人として死ねばそれでいいのである。
「真人間」にも「超人」にも「犬」にも「仏」にもなる必要もなければ、また他から「なれ」という命令を受けることも無用なのである。-辻潤


 自然を抜け動物を抜け、人間を抜け、人を抜け、自分を抜けてみるまで、どんな権威の前にも立止らないようにしよう。-辻まこと

ホント、似た者同士の親子だ。

 

 

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