2015-08-07 「悦楽のマリア」2 カタルーニャ独立 G・ガルシア・マルケス(改) G・ガルシア・マルケスのこの短い物語を漸く自分なりに読み終えて、今更にマルケスのスケールに圧倒される思いである。 文章技術や文字通り該博な教養が基盤であることは言うまでもないが、その作品の本質は、「詩人」であり、わが卑小浅薄な鑑賞力を棚に上げて申せば、「至高の愛」である。 それは長編「コレラの時代の愛」と通じかつ高めた。 老いたるマリアを「五〇代のころより魅力」に溢れていたと伯爵に感じさせ、ラストは青年の心を奪う存在として、作者はマリアに現実の人物像としてのあり得ない美を与え、すなわち、マグダラのマリアをその姿に重ね合わせていく。 78歳のマリアはラストシーン。 階段のやっとの思いで一段一段上がっていく。 彼女の吐く息が聞こえそうである。 彼女の「悦楽」すなわち法悦が 彼女の心臓の鼓動の響きとして読む者の心を揺さぶる。 その老いたる姿がスローモーションで若き麗しのマリア像に転換するように見えてくるのである。 一段 一段上がる度に若返っていく。 その様はまことに感動的なのである。 「 78年」(78年、符牒の数字)の長きにわたって「愛」という潤いを封印してきたマリアが、そのラストにおいて「愛」を獲得する。 このまま間もなく「死」を迎えるのではなかった。 マリアはそこから、たとえそれが一瞬であろうと(この自覚自体も魅力です)、その先新たなマリアとして生きていきます。 そんなマリアの姿がカタルーニャ独立の栄光と歓喜に重なるとすれば、長きに亘って虐げられ抑圧され続けた人々へのマルケスの共感としての最大の賛辞であり、文学者としての同志パブロ・ネルーダへの鎮魂でもありうる。 そう読んだ時にマルケスの打算なき至純の愛を感じたわけです。 短編でありながら長編以上の圧倒的感動を持っています。それは小説家でありながら、詩を描いたからかもしれません。 これは現代の類まれな叙事詩です。 マルケス文学の「世界」との対峙ぶり、見事です。 また、76歳の元娼婦マリアのイメージは「「わが悲しき娼婦たちの思い出」のローサ・カパルカスの原型にもなりうる。 しかし、やはりこの短編の特徴、いや、その位置については前の日記のあらすじに触れたように、マリアはその弾圧された側、いとも簡単に公安によって射殺され、墓には名前を刻むことさえ許されない独立運動側に立っている。 この作品は1979年5月に完成している。 1975年独裁者フランコが死に、1978年新憲法発布。 因みにマリアは78歳であった。 新憲法に基づくカタルーニャ自治憲章が成立し、カタルーニャ州が独立に近い体制となったことを併せ考えると、ジャーナリストとして、また、パブロ・ネルーダ(1973年死去)の盟友であるマルケスがその事態に反応することは自然である。 すなわち、この作品はマリアに仮託したカタルーニャ自治政府への祝福の短編であろう。 < そのときになって、、かくも長く、何年も何年も待ち続けて、それがたとえ、この一瞬を生きるためだけだったにせよ、暗闇の中であれほど苦しんだ甲斐があったことを知った>マリアは人生初めての「悦楽」に浸る資格を与えられたのである。 いま、またカタルーニャの完全独立運動がスコットランド独立運動に連動して激しくなっている。 弾圧されてきた民族が独立を求めるのは当然である。 沖縄の人たちはどう受け止めるだろう。 http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NBON856VDKHT01.. マルケスが存命だったらと思うと無念である。