pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

古井戸の中のガラパゴス

この表題はもちろん「美しい日本」の事である。


『古井戸』は中国作家鄭義(チョン・イー)の代表作で「発見と冒険の中国文学」叢書の一冊として翻訳された。中国農村が舞台で、村のためにひたすら井戸を掘り続ける主人公や妻、家族、村人が描かれる。現代の世界第二位経済大国となる以前の貧しい農村と人々が乾いた土と土俗信仰伝説と共に描かれる。ガルシア・マルケスの作風に近いためか魔術的リアリズム変じてグロテスクリアリズムと大江健三郎が呼んだ。

 

もちろん大江健三郎は残念ながらマルケスにも鄭義にも遠い。大江の初期作品には例えば『芽むしり仔撃ち』などに人間の生臭さー人間らしさーが感じられるが、やはり受験エリート作家で観念性が高い作品が続いた。彼の政治批判、憲法擁護や沖縄、広島への眼差しは傾聴に値するが、彼の世界には社会の下層で蠢き苦悩する人間は描かれない。
そのような世界を描けた作家は『むらぎも』などを書いた中野重治はいるが…

 

鄭義は文化大革命による下放やら弾圧、政府から追われる経験があり、アメリカに亡命せざるを得ない苦悩がある。

大江健三郎から見ればグロテスクリアリズムとなるのだろうが、実は大江の方がよほどグロテスクなのだと、その人間性に感じる。
マルケスの作品を魔術的リアリズムと称して思考停止となった日本文壇の責任は大江にもあるだろう。

中国や台湾の作家は既に日本を遥かに越えた。韓国作家は残念ながら未読。

 


『古井戸』の男はひたすら必死で穴を掘り続ける。いつか水が溢れることを夢見て。
日本の古井戸にはガラパゴスがある。
掘っても掘っても見えるのはイグアナが這い回るガラパゴスである。

 

今年初めて興味津々に歌会に加入した。
2度短歌誌に拙歌を掲載して頂いたが、その顛末は書いた通りの悲惨さであった。選者の方からの返事は無残だった。何十年と歌を作り続けた人の「添削」には見えず、初歩的であった。

年功序列
それは創始者前登志夫に大きな責任がある。
あらゆる短歌の賞を得て芸術院会員となり天皇から勲章を授けられた成功者であった。そんな彼の作り上げたヒエラルキーの無残は、こんな所にも現れた。
つまり腐る。
どうも短歌界どこも似たりよったりかも知れない。
原発讃歌歌人然り、そのヨイショ評論家学者殿、前に書いた通りである。
信じ難い愚劣がノソリノソリ蠢いているのである。
つまるところ、カネと「勲章」。それを目指して同人らがヨイショし、出版社が印刷販売し、ゴールを目指さしめる。

 

文壇なるものの姿である。
衆愚をアテにしてひたすら分かりやすい作品を書かせる。
文壇で思い出したが、偶然か必然か、私の好む作家や詩人、文章家はみな文壇と離れた所で書いた。大詩人文章家金子光晴などはノーベル賞に相応しいが、文壇から黙殺された。辻まこと然り。宮沢賢治然り。

 

この国では「上」は腐敗と堕落の意であろう。その「上」は井戸の中で悪臭を放ち、人々は悪臭に酔い、千古一日の世界で干乾びて暮らす。

 

海ゆかば」は準国歌だそうである。


国歌自体国旗同様自民党が強硬成立させた代物である。大伴家持の賀歌すなわち天皇讃歌を軍歌にしたものである。

海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て

これが80年近く前まで本気で歌わされていたのだ。


令和となった。
万葉集からの造語だと言う。
なぜ万葉集からか。それを注意せねばならない。
つまりは明治維新に遡るのである。


明治となり、天皇神格化というおよそ前代未聞の政治的発明が行われたが、そこに正岡子規が颯爽と現れた。曰く万葉に帰れ。

 

なぜ万葉か。

 

天皇天皇としての政治的権力を保持していた時代だからだろう。平安期に実権は藤原らの貴族に移る。神がかり国家を目指すには奈良時代に戻る他ない。

 

維新、(世の)いろいろのことが改革されて、みな新しくなること、と辞書にある訳だが、つまり維新は大嘘であり、単なる奈良時代回帰の復古主義であった。

 

もちろん正岡子規らも平安文学をよく理解出来なかった事もあるが、正岡子規のあの口汚い平安文学への罵りは明治「維新」に乗っかった彼の精一杯の虚勢であった。

 

以後、万葉集が短歌や俳句の世界観となる。平安時代をすっ飛ばして奈良時代に戻るという離れ業をやらかしたのである。こんなバカげた国はない。それを実行し国土焼尽、水漬く屍草生す屍の死屍累々をもたらしたが、現代人はまたすっかりそれを忘れ、或いはもとより知らずに今の暴虐政府を支持する。税金他散々巻き上げられて喜ぶ。レイプされても安倍友なら許され、母子轢き殺しても検挙されない。原発事故犠牲者への責任も誰も取らぬ。「肉屋に奉仕する豚」とはよく言ったものだ。

 

折しも来月に天皇即位式が盛大に見世物となって行われる。

見世物である所に注意すべきである。

皇居前広場では人気グループ『嵐』のライブをやる。10万人の見物客を見込んでいるが、テレビマスコミはまたこの見世物一色に染まる。

神格化ではない。見世物化し、皇室讃歌を洗脳するのである。この国では政治家も皇室もタレント化させ衆愚を煽るが、それは改憲と連動し、権力者の夢よもう一度の復古主義に戻る道をつけるのだ。

 

つまるところ、日本人は古井戸の中でガラパゴス世界を作り上げ、我々はその腐臭腐敗の中で息絶えていくのである。
哀れなのは子どもたちである。

 

「よくもそんなことを」と大演説を国連でぶち上げた スウェーデン高校生トゥンベリさんの気概に日本の大人は心から恥ずべきであるし、子どもたちは彼女同様の気概を持ってほしい。それしか島国の古井戸から抜け出す方法は無いのだ。

 

子どもよ。
日本は古井戸であり、偉そうに見えるのは全て豚を喰らう「イグアナ」なのである。