pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

父の思い出 3




敗戦後、郷里で結婚し、竹細工などで稼いでいた父は戦後の物資不足で飛ぶように売れたと喜んでいたが、実は銀行の宝くじで2度も大当たりをとったらしい。
ツイている者はどうもツキが続くらしい。
その御蔭でツキは父が使い果たし、此方はツキに見放され続けている。それはさておき、そんなこんなで、船会社に就職した時は、大阪に家を買って住んだのだった。船員の給与は高い。ただし、世界中の海を渡るので帰宅は年に数度だった。

父の帰宅は待ち遠しかった。
いや、お土産が待ち遠しかった。
欧州やインドやアフリカの小物、絵葉書やチョコなどの菓子、おもちゃはバラエティーに溢れていた。絵が得意だったので、大きな真新しいバケツにペンキでディズニーの絵を描いたりしてくれた。

弟 が生まれるので入院していた母のもとに一緒に行くのも楽しい思い出だった。大阪市中心部の大きな病院が既に再建され、その石作りの立派な建物の美しさを楽 しんだ。高い天井に輝く大きなライトや大きな鉄の格子窓、そしてガラス製の水のみなどに見惚れたのだった。夕刻帰宅途中、電車の中から、或いは公園でジャ ングルジムの上から夕日に染まる町並みがやや円形に見えることが印象に残っている。

父がいるときはよく出かけた。
奈良や京都、宝塚など出向いた記憶がある。宝塚は母の希望だったがそれは子供にははた迷惑でしかなかった。
クリスマス前夜、出港するときは母と港に送っていったが、サンタの菓子袋を買ってもらって満足だった。

子供には母の寂しさなど分からぬのは当然であったが、見送る母の姿には感じるものもあったのだった。枕を並べて寝ていたが自分の足が母の足に触れるとひんやり冷たく、足をくっつけてやったら喜んでいた。

小学校の教室の廊下から母が覗きこんだりしていたのもしばしばで、担任の美人先生はいつもニコニコ微笑んで母を教室に招き入れていた。此方は迷惑千万だったが母には全く伝わらなかった。給食も一緒に食べていた時もあった。
天衣無縫、天真爛漫だったのだ。

当時、風呂は銭湯だったが、子供には天国の遊び場で、ワルガキ仲間で湯船に飛び込んだり大騒ぎをして出入り禁止になったことも何度かあった。

母と行くときは未だ低学年の気安さで入ったが、同級生のかわいい女の子がいた時はさすがに戸惑ったものだった。
一応気にしていた私であったのだ。

銭湯の帰りにお好み焼き屋で食べたりたこ焼きを食べたりが嬉しくて母と行ったのだった。
帰り道、懐中電灯で暗い空を照らしたが暗いままで母に何故なのか尋ねた記憶がある。
祭りで当たった亀を持ち帰ったら海に返しましょうと言われ波打ち際で亀を放した事もあった。母は微笑んでいた。

その頃、当たり前だが遊びまわっていた記憶しかない。
パッタ、つまりメンコやビー玉で町内はおろかとなり町まで遠征してはシャツに戦利品を包んで帰宅したものだった。
負けたことは無かったが戦利品が木箱に溢れ母も始末に困ったようだった。
また、それで喧嘩になることも無かった。
勝負事はきっちりルールがあったのである。

昭和30年代前半、大阪にはまだ爆撃の傷跡が色濃く残っていた。友人の家を訪ねると、半壊したビルの一室に友人の家族が住んでいた。大阪駅前のビルの路上には乞食がたくさん並んで座っていた。
宮本輝の『泥の河』という作品に描かれている世界、映画化された世界はほぼ同時期同じ場所で暮らした私達の世界だった。
ただ、船上生活者はいたが、あのような身をひさぐ美女は知らなかった。当たり前か^^。

そんな社会で母は寂しさに我慢がならなくなったようだ。
また、私が騒いで近所の家の木戸を壊してしまい、そこのおっさんに怒鳴り込まれたりの恐怖もあった。
港町だから荒くれもたくさんいた。
私は荒くれたちに恐怖を感じたことは一度もなかった。
彼らは心底優しかったはずだ。友達の兄たちが荒くれ者だったりしたが、優しくもてなしてくれた。
今はやりの気色悪いお・も・て・な・し、ではない素の彼らだった。ご飯のうえに醤油をかけて、これうめえぞとか出された時は少々たじろいだが。

母は郷里の祖母が懐かしく、また祖母が呼んでくれたのも手伝って、私の大阪暮らしは小3で終わった。

母は独り不動産屋と交渉してサッサと家を高値で売り払い子供2人と帰郷したのだった。
後で聞いた話だが、帰国した父は大阪の自宅前で呆然とした。
見知らぬ家族が住んでいたのだから当然だが、頭のなかは真っ白だったという。

家を売ったという手紙は船を追いかけるが、父にはまだ届いていなかったのだった。
さすがの父もこの母の暴挙には呆れ返ったらしい。後年大笑いしながら話してくれた顛末である。

思い立つと行動に移す母の性格は終生治らなかった。