2018-06-17 良寛詩 ・ 良寛 花無心招蝶 花 無心にして蝶を招き 蝶無心尋花 蝶 無心にして花を尋ぬ 花開時蝶来 花 開く時、蝶来り 蝶来時花開 蝶 来る時、花開く 吾亦不知人 吾れも亦(また)人を知らず 人亦不知吾 人も亦吾れを知らず 不知従帝則 知らずして帝の則に従う帝則とは自然の理である。花や蝶が無心に交わるように私もまた無心に交わる。 良寛だから言えることである。しかし、 吾れも亦(また)人を知らず 人も亦吾れを知らず畢竟之に尽きるのではないか。己を知らぬ自分が他を知る道理はない。分かったつもりで生きているだけが人間であり、欲に3本の毛を生やしたに過ぎない。その3本の毛が生えてしまったので人間は花や蝶に成る術はないのだ。と言えば身も蓋もない。だから、人間なのだと言えば続く。花や蝶、自然の理にこの惨めな姿を重ねたい一心で宗教や文芸が起こり音楽や美術が生まれた。言い換えれば、人間とは良寛なのだ。無心となりたい良寛なのだ。だから良寛は無心なる子どもが大好きだった。(昨今の虐待死などは論外であり、救うべき社会の無責任さは論外の外である)生きながら無心となる。すなわち、生きながら死んでいたい。これ以上の矛盾した思想はない。老子の無為自然という矛盾を我がものとした良寛。花の下に死んだ西行然り。 旅宿花 平忠度 行き暮れて木の下蔭を宿とせば 花や今宵のあるじならまし正岡子規は万葉に帰れと威勢よく古今新古今を否定したが、万葉の発展である古今以後を否定したら万葉を否定する事になる。愚かである。和歌の風流の美意識の本質を全く理解しない。それは思想であり、生と死の相克、矛盾から生じた葛藤そのものであり、その研ぎ澄まされた知性である。激動の戦乱を生きた武将平忠度のその歌は単なる情緒ではない。死を生きた覚悟の歌である。すなわち花への憧れである。だからこそ、かけがえの無い美しさを放つのだ。そんな平忠度であるから、「恋」の歌もまた無心である。 失本心恋 かからじと思ひしことを忍びかね 恋に心をまかせはてつる(忠度集)「失本心恋」とは恋に本心つまり理性分別を失うということである。(かからじ、とは、こんなふうにはなるまい、という意味)忠度の恋が「忍び」の恋であったか知る由もないが、相手が小侍従ならばまた読む私としては想像が楽しくなる。小侍従の恋の相手が源頼政である事ははっきりしているから。しかし、そんな忍ぶ恋に本心を失うー無心ー恋と読むならば、そのひたむきさは恋(生)を美に昇華させるのだ。無論、死の自覚の上でのことである。誰しも同じく生き死ぬならばそのような自覚で在りたい。写真、無心なるチビとモン太郎(^^)