吉野西行庵
「平忠度の物語ること」
われ武人としてこの生を享けしもこの世の儚きはもとより、末法の世のあさましき人の所業、わが滅び行く一族にとどまらず、貴族も源氏一族も皆同じなりと断ず。
長承の飢饉はその惨状聞き及ぶのみなれど、久寿の飢饉養和の大飢饉はかつて見た地獄草紙そのままに、人が悪鬼となり死肉を喰らひ、子を捨て親を捨て、路上には骸が転がり山野には白骨が散らばりたり。空にはすでに阿鼻叫喚は聞こえず、ただ骸のすすり泣きとまごう風のすさぶ声のみ響けり。
仏法地に堕ち徒党をくむ法師どもの理を捨て利に色にむさぼる姿はまさに仏門へと衆生を導く者に非ず、ただ無限地獄の闇に立ちて誘ふ獄鬼なり。
かかる世に歌を習ひしことのみは我が身の幸ひなり。初めて紀貫之殿の仮名序に触れし時の心の震えは、いまだ超えるべきものなし。
「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり」
なにはづにさくやこの花ふゆごもり
いまははるべとさくやこのはな 王仁
この王仁博士の歌の見事さよ。韻の見事さよ。大和言の葉のやさしさと美しさが春の花の咲き匂う喜びを溢れさせているではないか。袖が涙で濡れそぼつほどに。貫之殿が序の引用第一にこの歌を取り上げられた心を偲ぶ。
歌を詠む我が身は現世にありと言へども、詠む心は自然を、はるけき天空をうつつを超え、まさに西行殿が詠まれた浄土にも向かふべし。
花鳥風月はその折々を超へその神韻に迫り、花の朝露に濡れしが如き涙のあはれも亦み仏の涙に通ず。
詠むべきは王仁博士のごとき神韻なり。
心に通ひ心を超え心を忘れんべきものなり。
歌の一言は世の万言にもまさりて胸を打つべきなり。斯様なる歌の世界に我が身を僅かなりとも置きしは、我が虚しき生に於ける大いなる輝きなり。光明なり。喜悦なり。
先年の寿永二年、都落ちのきはに俊成卿に我が拙き歌を託し奉ったのは、そのような我が現世へのただひとつの未練執着なり、彼岸への祈りなり。
さざ浪や志賀の都はあれにしを
昔ながらの山桜かな
望郷懐旧の歌にあらず。高市黒人殿の次の御歌によりて詠み侍りぬ。
楽浪の国つ御神のうらさびて
荒れたる都見れば悲しも
この御歌の「神」を「みほとけ」と詠みかへたまふれば、我が歌の本意、いささかにか御伝ふべくもあらむか。