「小侍従の語ること」
平等院の御名を思い出し、思ひがけず頼政様を思い起こしました。遠い昔の想いとはいえ私の心の奥底の灰の中に熾火のように残っているのです。遠い空の彼方においでのあなた様にお伝えするには己の秘すべき事柄にも少しは触れねばせっかくのこの出会い、勿体無きことと存じます。貴方様のお陰にて、頼政様のお言葉までここに伺えましたことは何よりの喜びです。短くも熱き逢瀬は秋の紅葉春のさくら花の如く心深く染みわたっております。
もうひと方、頼政様を想浮かべれば平忠度様も想い浮かびます。伊勢平氏棟梁である平忠盛様の六男としてお生まれになり文武に秀でられ、そのお詠みになる御歌は藤原俊成様の御導きになられたお美しいものでした。
いさしらず花は散りてやうらむかは
いまはのわれのおもふかたなれ
忠度どの御こと俊成様より聞き及びし次第
「寿永二年七月都から落ちゆく途次に忠度どのは俊成様御屋敷にお戻りになられて、紺地の錦の直垂に、萌黄縅の鎧を着たまふ。」
その凛々しく艶やかなる様は西へ落ち行く平家公達の中でも一際美しかったと周りのものたちが囁いておりました。
「君すでに都を出でさせ給ひぬ。屍を山野にさらさんほかは、期するかたなく候。世しづまりなば、さだめて勅撰の沙汰候はんずらん。そのうちに一首御恩をかうむり、草のかげまでも、うれしと存じ候はばや。また遠き御守りともなりまゐらせべし」
と仰せられて鎧の脇の隙間から巻物一巻俊成の卿に奉られ給ふとお聞きしました。
また
「今生の見参こそ、ただいまをかぎりと申すとも、来世にてはかならず一つ仏土に参りあはん」と言葉を残し俊成卿のお見送りを後に
「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す」と詠じたまふ。
平家物語
もはやとの御覚悟の様を俊成様に聞き及び、私は涙止まらざるままに過ごしたものです。
さざなみや志賀の都は荒れにしを
昔ながらの山桜かな
この忠度様御歌は後に千載集入集となりましたが今は朝敵の身の故に読み人知らずとなりましたことはいふべくもなく口惜しい事でした。
その昔、忠度殿二十二の御歳、私との二十三の歳の違にも忠度様ためらはずお詠みくださいました。
かからじと思ひしことを忍びかね
恋に心をまかせはてつる
たぐいまれなる美しき若き公達の真っ直ぐなみ心をどれほど嬉しく思ったことでしょう。
思い出すとそののちにも幾たびか御文くだされなさる。それはまた人の口の端にも掛かることもございました。のちに頼政様からからかわれたほどでございます。
御歌
家づともまだ折りしらず山桜
ちらで帰りし春しなければ
かへし
我がために折れや一枝山桜
家づとにとは思はずもあれ
家づととは家に持ち帰る手土産のこと。かたじけなくも楽しき歌のやりとりの日々を思い出します。
人はみなかなはぬ戀とも思ふらん
しのぶかよい路露しらぬとも
忠度殿のいつはりなきまことの歌の心をわがはしたなき身にも知られるのでした。
忠度殿の一の谷の御最期も聞きました。
元暦元年如月七日のこと。なんと あはれにもお見事な御最期であられました。
御最期のおり岡部六弥太忠純殿が忠度殿の箙に結び付けられていた文を解いてみたところ次の御歌がしたためられけるとぞ。
旅宿の花
ゆきくれて木のしたかげをやどとせば
花やこよひの主ならまし
忠度
月下、花の舞い降りる下に忠度殿今も安らかに・・・