pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

愛と見返り美人と安吾



「愛」という漢字について

「後ろを顧みて立つ人の形である文字と心との会意文字。後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人の姿を写したものであろう・・・中略・・・人の心意を字形に写して、巧妙を極めている」


前の記述に於いていまだに心を牽くこの白川先生の言葉。
今から三千数百年前に中国殷王朝で生まれた漢字のありがたさよ。その解釈をお教え下さった先生のありがたさよ。


           1

古代、あなたはその時その場から立ち去ろうと歩みはじめたのだ。

それはあなたが農作業のために家の戸口から出たばかりの時なのだろうか。家には自分の乳を飲み終えた幼子が眠っている。吸われた乳房の痛みがあなたには突然この上ない喜びとして感じ、思い出された。あなたの目は喜びに満ち家を見つめた、その時なのだろうか。

それはあなたがすでに丘の赤茶けた道に立っていた時だろうか。または乾いた風が吹きすさぶ無辺の赤い曠野に細く続く道を歩み始めた時であろうか。重苦しく陰鬱な道の先に待つ兵営に駆り出されたために。しかしあなたの目は爛々と燃えていたことをあなたは気づいていなかった。生きて帰りたいと発作のような感情が目に溢れたのだった。

中原の空の下、その時あなた方は、ふと振り向いたのだ。
振り向いたのはなぜか考えることはなく、ただふと振り向いた。振り向いたその先には家に我が子が眠っていた。家族の暮らす家があった。恋人の家があった。

振り向いて立ったあなた方の目の言い知れぬ深い色を彼は硬い甲羅に線刻していった。彼の頭にはそんなあなた方の姿で一杯だった。如何にあなた方のその目の深い輝きを文字にできるか、彼は精一杯、仲間たちの知恵も借りながら、長いあいだ細い鑿で掘り進んでいったのだった。「愛」という文字を。その文字が数千年後にもいや永遠に伝わることを祈りながら。

そして、それは文学の曙を告げたのである。

          2

菱川師宣の浮世絵に見返り美人図と呼ばれる有名な作品がある。
まことに完璧な構図(一見不思議で不格好な姿勢と言われる)でその振り向く美人(美人でないという専門家もいる)の目はどこに視線を送っているのだろうか。

菱川師宣は彼女以外は何も絵に付け加えていない。
余りに完璧な絵であったからか、この構図の絵はほかにない。あったとしてもこの絵の彼女を超えることは無理だ。
なぜか・・・彼女の視線は至近から永遠の先にまで向いているからだ、と思う。
そんな彼女の視線の先を観たいのだ。


   ふり返るー坂口安吾『日本文化私観』ー

「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることが出来ないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。

       中略

叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると、叱られてしまう。人は孤独で、誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学は、こういう所から生れてくるのだ、と僕は思っている。

       中略

僕は文学万能だ。なぜなら、文学というものは、叱る母がなく、怒る女房がいなくとも、帰ってくると叱られる。そういう所から出発しているからである。だから、文学を信用することが出来なくなったら、人間を信用することが出来ないという考えでもある。