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「思うままに」 S
周囲に向う心よ 汝の目を閉じよ
周囲にて汝を是非する
ほとんとことごとくは愚人なり
汝自身を高むる者は
汝自身の中にあり
汝自身の中に沈め
漂泊する心よ 憤激する心よ
汝を正しいとせんとする心よ
周囲に対してあまり敏感なる心よ
阿部次郎
昨年の春、快よい日ざしに映える野山の草々。自然の生きずかいが肌に感じる頃、編入という形で私は“志"を唯一の灯として定時制に移りました。
私が以前に就学していた学校は、受験校という言葉がそのままあてはまる学校でした。しかし、ジャーナリストがよく取りあげている"灰色"というイメージはそこにはありませんでした。青白受験生などもそこにはいません。みんな気骨があり各自の青春を各自なりに謳歌していました。
しかし、私はそこを出ました。"志"という精神を唯一の灯に、私はそこを出ました。
そして今、一年という月日が私の目の前から過ぎ去ろうとしています。
率直に述べます、定時制カラーが失いつつあるのでは。
"苦学"という言葉、それはもう過去のものでしかないのでしょうか。
定時制生徒の考え方が、クールかつスマートになったのは良いことだと思っています。しかし、学習の面にまでクールさで妥当してるような気がします。テストとその点数だけを懸念して、あとは興味なし。単位獲得だけが唯一目標。
私自身、偉そうな批判を述べるような立派な人間ではない。しかし、定時制たるもののあり方をもう一度各自考え直しても良いのではないでしょうか。
私はこれからも歩みます。道の無い途を。本物の人間になるために、"志"を唯一の灯にして、私は歩みます。
地獄を知らぬ者
地獄を忘れた者
地獄にいる者は
地獄を描くことはできない
地獄を通ってそれを見ている者が
地獄を描くことができる。
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先週から体の不調が続き、月曜にピークになり通院、薬を飲まざるを得なくなった。火曜は夜勤でまだ体は動くので行った。昨日は帰宅後にほぼ寝たきりであった。寝たきりは嫌だね。体に痛苦があっての寝たきりは何も面白く感じられず、食欲もなくなる。そんな無聊極まる中で、ここで「日記」という駄文を連ねる事が唯一の気散事であった。「ネット依存症じゃないの?」いえ、ネットそのものです。
さて、始めに引用した文章は、私が大学をやっとこさ卒業して初めて勤務した福島の定時制高校で出会った生徒の文章である。16歳の生徒の文章として、宜しければ読んで頂きたい。
私も御同輩に倣い、お迎えが近いので家の片付けを始めたのだが、書籍類だけでダンボール16箱整理した。(まだ書棚3本に押入れにもある)そんな中で、その引用した文章の載っている冊子が出てきたのだ。
彼、S君は福島トップの受験校から来た。その時、仲間7〜8人が同じく中退して各地に散ったらしい。その受験校の成績上位者のほぼ全員である。文中、中退した高校を批判的に書いていないが、よく読めばわかるが、残してきた生徒仲間への配慮である。ガリガリ受験体制に失望し、更に青春の血をたぎらせて飛び出した。裕福な老舗料亭の息子であったが、家も飛び出し、新聞屋に住込みで定時制に通学した。生徒会長をこなし、部活を楽しみ、さて、授業は?暇だったろう。彼は医療過疎に苦しむ海外で医者をやりたいと言っていた。
今彼がどんな人間になっているか知らぬ。
知らぬ方が良いかも知れぬ。
私の高校まで同期だった男はやはり優秀で良い男だった。私のようにヤマをかけて合格するタイプではない。大阪の大企業に勤務していたが、同級会で会ったら肩書きだけのカス野郎に成り果てていた。一方で、魯迅の『故郷』の世界もあった。同級会とは辛いものである。
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中略
私は"若い"という言葉をこの文章で頻繁に使用し、強調した。しかし、この"若さ"とは年齢的なものではない。年齢を超越した人間の精神を示唆していたのである。我々凡人は、己の年齢をもって己の精力を自ら規制してしまう。そして、その逆説的規制によって自らの人生に妥協することを余儀ないと自負している。"若さは無限なる可能性"と定義した所以にも、"精神力の限りない可能性"という確固たる偽りのない真実の礎が、そこに必然的に存在するからである。
略
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これも同じS君が書いた生徒会誌の一文からの抜粋である。
この野郎、我々に対しても挑発してやがった。
やはり、S君の今を見たいとも思う。
相反した人生なら笑ってやろう。