pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

愛の讃歌と学校 2

前回の続きです。

愛の讃歌を出して、呆れられた方々もいらっしゃるでしょう。

あの歌、日本人歌手で歌おうとするのは余程度胸が座って技量も高い人でしょう。わざわざ大竹しのぶさんを出したのは、歌唱力というものが全身から生み出されるものだと実感したからです。演出とか振り付けとかの技術的レベルを超えた、全身から歌が感じられるから、彼女の愛の讃歌は訴求力が高い。

愛、それをあの歌では100%、これ以上の存在はあるかと叩きつけてくる。キリスト教的な愛まで辿り着く。即ち、そこで普遍性を獲得している訳です。徹底的な個人主義的な愛です。それが、神の救済により普遍性に高められる。

日本人の感性は「控える」伝統に馴染んでいます。抑制の美学。または余白の美学。そこまで高められた日本人の文化的美意識は大変魅力的です。

能とオペラの違いですかね。

従って、愛を迸るように歌い最後には神の世界に入る、愛の讃歌、は実は私も苦手というか、こっぱずかしい!のです。赤面どころではないのですが、そこを耐え忍んでまで、「愛の讃歌」を引用せざるを得ないほど、我が国の子ども達への愛情の薄さが深刻だからです。

もちろん、母子家庭父子家庭など現代は家族の在り方の激動期です。家族と言えど憎悪しあい、夫婦親子と言えど離反しあい、孤立化はもはや新しい個人の在り方をそれぞれが作らなければ個人として極めて生きづらい社会となりました。もちろん安定した家族であってもです。個人が個人としての在り方を獲得し、相互尊重しあえる在り方しかこの激動期を乗り越える道は無いと感じます。

そんな中で未だ自立しない子どもに対する「親」の在り方はやはり「愛の讃歌」のような絶対的愛情に求める他は無いと思います。

というより、本質的に「親」は、本能としてそうだからです。本能が壊れていれば究極、農林水産省元次官のような惨劇を起こしてしまうまで突き進みます。

彼の家庭など、極めて断片的な情報しか知りませんが、知り得た情報からは、典型的な家庭。即ち、教育=出世という功利的価値観に染まった家庭なのではと推測します。成績が悪いという理由で子どもが一番大事にしていたものを壊す。歪んで当然です。その歪みは問題を家庭内の閉じ込めたために、増幅されるしか無かったのです。
子どもというのは親の期待に応えたくて一生懸命です。その、懸命な努力を否定され続け宝ものさえ壊されたら…


児童相談所の保護所に私が勤務した時には、過去に書いたように、いわゆる「御三家」の学校から2名、女子校トップの高校から1名放り込まれていました。

裕福な家庭での悲劇。しかし保護所経験を上手に乗り越えれば生き返る機会はあります。本来高い理解能力を持っているのですから。彼らが保護所入りしたのは却って良かったかもしれません。それまでの過去をぶった斬る事になります。

今大概の私学は進学率アップの為に必死で受験勉強を強います。子どもたちは完全に受動的に高校まで過ごさざるを得ません。18歳までほぼ完全に親と学校と塾に支配されたらどうなるか。

中間層貧困層の子どもたちは公立ですが
、公立は書いたように差別丸出しです。高偏差値校の校長は教育長コースが用意され、中低の校長はどこか「天下り」するのが夢です。給与の増額、数百万円の増額だけでは満足しません。従って保身が全てとなります。教員は現在、おそらくかつて無いほど管理職に従順だろうと思います。以前、そんな管理職への抵抗勢力だった組合は自民党マスコミによって弱体化の一途でしょう。もちろん組合自体の抱える問題は多々あり、結局は組合員個々の力量な訳です。現在も良心的に高度な指導力を持った教員もいるはずです。しかし相対的な公立の位置は完全に私立に逆転されました。
その逆転は偏差値です。

根本的に、偏差値主義が蔓延しています。
同時に受験産業が強大となりました。
そんな中で子どもらがどうなるかは前に書いた通りです。

様々な家庭の子どもたち。施設から通う子どもたちもいます。給食食べたさに通学する子もいます。

明日から学校再開です。

何を学校は神経を尖らせているか。書いたようにコロナ罹患を防ぐのに大わらわです。授業進度も計算され遅れを取り戻すのにも必死です。その遅れとは、学習進度であり、子どもたちの理解進度ではありません。あくまで学校、教委、文科省そして遅れをどうする!という保護者の都合です。

授業日数、カリキュラムの、消化が目的であり、子どもたちの理解進度はその次。本末転倒と思いませんか。

子どもの心のケアも担任はしなさいと訓示されています。どうやって?とはもう私も相手にしませんよ。校長は訓示を垂れていればやった感に満足する訳。

籠もり疲れ、山のような自習プリントに疲れた子どもたちをケアするに、呆れるほど細々とした消毒やら取り決めやらを用意し、ソーシャルデスタンス?で机を離し、シールドを巡らして迎えます。

安全なら遊ばせろ!校庭でも体育館でも。一言も遊ばせたいという声は聞こえません。子どもたちの溜まりに溜まったストレスへのケアの第一は自由に遊ぶ事に尽きるはずです。
校長も教員もカリキュラム消化を優先し、大わらわです。

というより、コロナからの安全は確保されていないからこそ、こんな対策が学校に課せられて居る訳です。それでも再開させる。オリンピック目当てでしょうか、再選のためでしょうか。カネのためでしょうか。

親としてこんな現実に対しどう向き合うのか、試されています。


学校解体論という思想があります。
私は未だその解体論まで与する理解はありませんが、ほぼそれに近いところまで理解できます。


   祖国を、捨てても、…、


愛の讃歌のフレーズの一つです。解体論に近い精神かもしれません。




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ミーちゃん。初めて窓際の鉢置きの上に座って楽しんでいます。完全な、家猫として暮らさざるを得ませんでしたが、我が家に来て数年、庭歩きも覚え、今日初めてそこに座りました。他の猫たちがそこに居る姿を見ながら過ごして来て、ようやく飛び乗る決心をしたのです。ミーちゃんには大冒険なのです、

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