pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

竹取幻想19

 

「安芸の厳島の社は、後は山深く茂り、前は海、左は野、右は松原なり」

 

 嘗て、西行様にそのようなお話をお聞きしたことがあります。まだ清盛公が厳島社造営なさる前のことです。
 厳島は当時人家なく、巫女などお仕え申す者の仮寓の住まいが簡素にあっただけとか。その厳島神社に私が参ったのは、清盛公が安芸守になられ荘厳な大改修を果たされた後のことでございます。


 当時私は五二才、年齢としてはとうに退かなくてはならぬにも関わらず太皇太后多子様にふたたびお仕え申し上げておりましたところ、あまりにはしたなく憂きことのみ多くなりて耐えられず病を患い、ついに大宮を退く時に、日頃歌を始め大宮内でお頼り申し上げていました平経盛様からの励ましとともに厳島参拝をお勧め頂いたのでした。冬の間しばらく休養なされて回復なさった時にいかがかと。多子様には申し訳なさで消え入りたい思いでいっぱいでしたが、多子様にはお美しい微笑みをねぎらいのお言葉とともに頂戴したのでした。

 

「小侍従や、長きにわたって頼もしくみていましたよ。まずは体をいたわりなさい。そして私の代わりに厳島神社へ参詣しておくれ。途中の海内や旅の様子など土産話を待っていますよ」

 

 女一人の長旅ではと源頼政卿の御手配により屈強の武者方を伴としていただきました。また、弟、岩清水権別当成清が、宇佐弥勒寺検分に参る、厳島は豊後の道途であるからと私を気遣い、道中の伴となりました。もろもろ身に過分なるお手配でした。

 厳しい冬が去り、春の息吹きが都を染め上げるなか、私の体調はようやく回復し、はるかな旅路に思いを馳せるいとまもなけれど、未だ見ぬ西の海の波のさざめく音、聞こえし厳島神社の荘厳なるお姿・・・老いに加え絶え絶えであったわが心や体がいつしか娘子のごとくに弾んでいるのを知ったのでした。

 

    みちすから心もそらになかめやる
         みやこの山の雲かくれぬる
                         待賢門院堀川

 生まれて初めての長旅です。不安も強い私でしたが、初めての瀬戸内の海、出立の朝は言いようもなく心は躍ります。太皇太后多子様には、せめて鳥羽までと牛車を私のためにお気遣いたまはりました。多子様は大宮での私へのいみじき仕打ちへの数々にこころ憂く思し召されていらっしゃったのでした。なにごともかたじけなく、よわくなりぬる我が身に過ぎたるはれがましき事と、心も奮い立つのでした。

 

 門前に回した牛車に乗ろうとした時に直垂姿の頼政様ご子息、源兼綱様が郎等四名と共にお見えになりました。まさか、と思えばまさにで、兼綱様が旅に同行して頂くということでした。恐縮しつつお礼を申し上げますと、

 

「なんの、わが父の命令です。実は小侍従殿が厳島参詣にお出かけになると聞いた父が珍しくウロウロと落ち着きなく、如何思案したものかと私に聞くのです。そんなふうに相談してくれることは滅多になく、ははあ、ご自分が行きたいのだな、しかし公務に忙しく行くに行けない。そこで私が行きましょうと提案したのです。 私も内心厳島へ行ってみたいと常々思っておりましたので、いい機会です。そのように申しますと、父は膝を叩いて、そうか!兼綱、行ってくれるか、そちなら安心じゃ、と喜んでくれましたが、口惜しさがありありと顔に浮かんでおりましたよ」

 

そう兼綱様は仰ってカラカラと笑い声をあげなさいます。

 

「お付きのものは私で十分ですが父は四人付けてくれました。小侍従様がいかにもご心配なのでしょう」

 

 またお笑いになる。その明るい笑い声、お顔は若さがみなぎり、思わず私もつられて微笑んでしまうのでした。頼政殿のご子息郎等みな剛の者、その中でも兼綱様の剛力、弓の捌きは聞こえております。明るい声と共に私の旅への不安は忘れて出発です。

 

先ずは朱雀大路を通り鳥羽殿まで。
ただ、方違えを兼綱様にもうしましたところ、また、大笑いなさる。何がそんなに可笑しいのと、幾分腹を立てて尋ねますと、それはお公家様の世界のこと、われら武門の者には縁はござらんとまあはっきりとした物言い。「まっすぐ大路を抜け参りますぞ」とにこやかに仰せられては返す言葉もありませぬ。しかしそう言われても不安は消えません。大路を進み羅城門に近づくとますます怖れは強くなります。近年荒れ果てた羅城門には鬼が棲む魔物が潜むともっぱらの噂です。都を守護奉るべき羅城門さえそのような噂に、私はこころも絶えぬべき有り様でした。車の物見を開けまた兼綱様にその恐ろしきことを申しますと、兼綱様は今度は真顔 になり、

 

「ふむ、その話は存じています。確か鬼が通行人を片っ端から捉えて貪り食うとか。丹塗りの門はとっくの昔に剥げ落ちておりますが、その柱の今も赤いところは食われた人々の流した血の色とか・・・羅城門の上の階には、食われた死骸が山のように 打ち捨てられているとか・・・鶏の如き赤目の老婆が死骸の髪を抜きながらその番をしているとか・・・おそろしや・・・わたくしめは真っ先に逃げさせていただきます」とおっしゃる。

私はそんな話を聞いておそらく顔色を失ったのでしょう。
気配を感じられた兼綱様は


「いや、まことそれは冗談に過ぎ申しました。おゆるしくだされませ。」


「でも・・・鬼が・・・」と申しますと、
「いやいや、鬼などというもの、この兼綱、見つけ次第に退治しましょうぞ。どうかご安心召され。この付き従う者達も皆選りすぐりの剛の者たちです。」


 それでも私は息をつくのも忘れるほどに怖れて車の中にうずくまっておりました。

 それは承安三年の春のことでございます。
待賢門院堀川様の御歌のような心地などすっかり心から消えておりました。目を閉じたまま車の中で怯えておりました私ですが、恐ろしげなる羅城門を昼前には通り過ぎ、やや落ち着いたここちがします。その間、 思い出したこと、それは近衛天皇の御世、兼綱様御父、源頼政様がまだまだ兵庫頭でいらっしゃいました頃の鵺退治のことです。そのお話は暫くの間宮中の話題となり、頼政公のご武勇は天下に轟いたのでした。

 

 ある時、清涼殿に夜な夜な変化の魔物があらわれて帝はいみじくまどひなされるのでした。そこで公卿らの詮議が行われ、かつて堀河天皇の御代に同じような例あり、将軍の源義家様が、紫宸殿の広縁に待機、弓弦を3たび打ち鳴らし、大音声で名乗りをあげたところ、帝の苦しみも和らいだと。それで今回頼政殿に白羽の矢が立てられたと聞いております。兼綱様にお聞きしたいことがありました。

 

「その時、頼政様はお断りなされなかったのですか」

 

「いや、父も初めはお断りしました。「昔から、朝廷に武士を置くのは、反逆の者を退け、勅命に逆らう輩を滅ぼすためだ。目にも見えない変化の物を退治しろと言われても、承ることはできない」と。」

 

「では、頼政さまがその時矢を二筋持っていたのはどのようなわけですか」

 

「それは、一筋は魔物を倒す必死の一筋、もう一筋は万一魔物を仕損じた時は武門の恥、腹をかっさばく覚悟でしたが、その前に自分を祭り上げた公卿補佐の源雅頼の首の骨を射抜いてやるつもりだったと聞きました」

 

 兼綱様はそう仰ってまたカラカラとお笑いなさる。
兼綱様の朗らかな笑い声に、従う武者たちも馬上でうち笑い、私の羅城門への怖れも和らぐのでした。