pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

竹取幻想11

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そうです。では話を続けさせていただきましょう。再び小侍従の声が聞こえてきた。もっとも辛き事は愛別離苦の嘆きです。会者定離の世とは申せ、家族や愛する人の死を受け止めなければならない辛さ、残る辛さをお分かりください。


     「源頼政様のこと」

 

 平等院と申せば私にとって源頼政様の事となります。その頼政様ご最期を遂げられたのが平等院の御庭でした。末法の世を懼れ西方極楽浄土を現した鳳凰堂の傍らでの頼政様御最期です。御堂を血で穢してはならぬと頼政様は平等院に入られたときにご一族や郎等の方々にきつく下知なされていたと聞き及んでおります。


 時は治承四年四月九日、後白河天皇の第三皇子以仁王様が「最勝親王」と称し、諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を発し源頼政様が呼応なされました。頼政様御歳七十七。お歳を召されてなおの赤縅鎧姿での馬上にての堂々の美しき晴姿。篝火に映りて眩しきほどであらせられたとか。

「火をかけよ」 

 頼政様の太くしはがれた声が低く然し夜陰を圧するが如くに響いたとか。住み慣れし都の宿にも未練なく焼き払って宮のおわします三井寺へ駆け参づれと家の子郎等を引き具して都を落ち給うとお聞きしました。しかるにあまりにはように以仁王の宮ご謀反は平家方に知られたのでした。

 

 さる程に、三井寺には、貝鐘鳴らいて、大衆僉議(せんぎ)す。
「そもそも近日世上の体を案ずるに、仏法の衰微、王法の牢籠(ろうろう)、まさにこの時に当たれり。今度入道の暴悪を戒めずば、何れの日をか期すべき。宮ここに入御の御事、正八幡宮の衛護、新羅大明神の冥助にあらずや。天衆地類も影向(ようごう)を垂れ、仏力神力も降伏を加へましますこと、などかなからん。なかんづく、北嶺は円宗一味の学地、南都は夏臈得度(げろうとくど)の戒場なり。牒奏(ちょうしょう)の処になどか与せざるべき」
と、一味同心に僉議して、山へも奈良へも牒状をこそ遣しけれ。
 先づ山門への状にいはく、
園城寺牒す、延暦寺の衙。殊に合力をいたして、当寺の破滅を助けられんと思ふ状。右入道浄海、ほしいままに仏法を破滅し、王法を乱らんと欲す。
愁嘆極まりなき処に、今月十五日の夜、一院第二の王子、不慮の難を遁れんが為に、ひそかに入寺せしめ給ふ。ここに院宣と号して、出だし奉る可き由、しきりに責めありといへども、出し奉るに能はず。よって官軍を放ち遣はすべき旨、その聞こえあり。 当寺の破滅、まさにこの時に当たれり、諸衆何ぞ愁嘆せざらんや。なかんづく延暦・園城両寺は、門跡二つに相分かるといへども、学する所はこれ円頓一味の教門に同じ。喩へば鳥の左右の翼の如く、また車の二つの輪に似たり。一方欠けんに於いては、いかでかその嘆きなからんや。ていれば、殊に合力を致して、当寺の破滅を助けられば、早く年来の遺恨を忘れ、住山の昔に復せん。衆徒の僉議かくの如し。よって牒奏件
の如し。治承四年五月十八日、大衆等」とぞ書いたりける。  『平家物語


        訳文

そうこうしているうちに、三井寺では、ほら貝を吹き鐘を鳴らし、僧兵たちが会議をする。
「そもそも最近の世の中の様子を考えると、仏法が衰え、朝廷の統治も衰える時が、まさに今この時に当たっている。今回、入道(平清盛)の暴走を戒めなければ、いつ実行することにするのだろうか、いや今しかないのだ。宮(以仁王)がここにお入りになったことは、正八幡宮のご加護であり、新羅大明神のお助け、冥加ではなかろうか。梵天帝釈天等の天部と地上の諸神も地上に顕れ、仏力・神力も助力をくださることが、どうしてないだろうか、必ずやお助けくださる。とりわけ、比叡山は天台円宗の法華一乗の法を学ぶ地で、興福寺は夏安居の修行をし、仏との縁を得る戒場である。牒状で申し上げればどうして味方しないことがあるだろうか、きっと三井寺の味方をしてくれるだろう」
と、皆で話し合って、比叡山へも奈良へも回状を送った。
 まず山門(比叡山)への牒状で言うことには、
園城寺三井寺)から、延暦寺の寺務所へ回状す。特に力を合わせて、当寺の破滅をお助け頂きたいと思う件である。入道浄海が、ほしいままに仏の教えを破滅させ、天皇の統治を乱そうとしている愁嘆極まりないところに、今月十五日の夜、一院第二の王子(後白河法皇の第二皇子・以仁王)が、不慮の難を逃れるために、ひそかに園城寺にお入りになる。ここに院宣と称して、(以仁王を)お出し申し上げろとのことが、しきりに強く求められているが、できない。そこで、官軍を放ち遣わすだろうとのことが、噂になっている。 当寺の破滅が、まさに今この時に当たり。(各地の)僧兵たちはどうして嘆きは当然であろう。とりわけ延暦寺園城寺は、流派は二つに分かれても、学ぶのは天台宗の教えで同じである。たとえると鳥の左右の翼のようで、また車の二つの車輪に似ている。一方が欠けたら、どうして嘆かないだろうか、いや、嘆くはずだ。ならば、特に力を合わせて、当寺の破滅をお助けくださり、早く近年の恨みを忘れ、昔に戻ろう。僧兵たちの会議の結果はこのようである。よって、このように申し上げる。治承四年五月十八日、僧兵一同」


 南都北嶺大衆みな牒状吟味し議を重ねてはおるが遅々としてすすまぬ。しかるに時はもはや猶予がならぬ。宮、三井寺から宇治平等院にお入りなされたとか。しかし平氏の軍勢は宇治川に迫っておる。宮を南都まで逃し奉らんと策を案じ、頼政様とご子息郎等らみな平等院に籠もりて平家大軍を迎え討たんとすと私は伝え聴いたのでした。

 平家方は左兵衛督平知盛様、頭中将平重衡様、薩摩守様平忠教様らの大将軍のもと万余騎の軍勢で押し寄せ、頼政様らは橋の合戦に始まり果敢に戦ひなさいました。されど多勢に無勢。頼政様ご長男仲綱様あたかも八幡太郎義家様再来の如き奮戦ののち自害なされました。矢を肩に膝に受けられた兼綱様は獅子奮迅ののち討たれ、滝口の武士となられていた渡辺競様など私の存じ上げた方々もお見事なご最期であったと聴きました。時に及び、月光降り注ぐ平等院御ん庭にて頼政様御自害召されしとぞ聞き及びました。

 

頼政様渡辺長七唱をお呼びし、「わが首打て」とおっしゃいました。主の生首打つ事の悲しさに、「長年お仕え申し上げておりました私にはとてもできません。御自害なされ、その後こそは賜はりたく存じます」と涙ながらに申されたので、そうであったなと、西に向ひて手を合せ、高声に十回念仏を唱へなさりましたそうです。

 

 頼政様耐えに耐えぬるそのながき一生のうつつ闇もこの一瞬にて眩き生となり世にしるされなさったのでした。
治承四年五月二十六日のことでございました。

 

      頼政様ご辞世の御歌

  むもれ木の花さくこともなかりしに
          みのなるはてぞかなしかりける

 

 これを最後の詞にて、太刀の先を腹に突立て、俯様に貫かつてぞ失せられける。その時に歌詠むべうは無かりしかども、若うより強ちに好いたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その首をば長七唱が取つて、石に括り合せ、宇治川の深き所に沈めてけり。
                              平家物語

 

 

写真 吉野

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