pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

竹取幻想35




「お尋ねしてよろしいですか。史文徳殿はなぜ我が国を選んだのですか。貴国は西に西陵、吐蕃や天竺、北に金、高麗、南には大越など多数の国と接していますが。」

 宿の差配役の景光さまが居ずまいを正してお尋ねになります。

「はい、歴史書の勉学やらもしておりましたが、魏志倭人伝を読んだ頃から不思議な国として印象が深かったのです。また、奝然という名の東大寺の学僧が六〇年以上前に我が宋国に派遣されている記録があります。それによりますと、時の皇帝の太宗との会談に於いて、奝然殿が、我が国では開国以来革命と呼ぶようなものは無く、大臣なども世襲ですと太宗に申し上げたとか。その時太宗は溜息をつかれて羨ましいことよと仰せられたとか。それも大変興味深いです。記録では貴国の源信殿が著わされた往生要集は当時五代十国期の仏教混乱で衰弱していた教えに大きな寄与をなしたとか。また此方の国でも詩文が盛んであり、先ほどの貴国の固有の和歌なるもの、素晴らしいです。

 加えて貴国中に仏教が篤く信仰されているともあり、また、明港に出入りする日本の人々の礼儀正しい姿にも刺激されました。現在、大変活発な交易が日本と行われていること、とくに平清盛公のお導き以降の活発さには目を見張るものがあります。また様々な物資の交易のなか、仏典を含む書籍が新刊だけでなく古書まで取引されているとか。すでにわが国では散逸してしまった貴重な書なども貴国に保存されているとか。いや、先ほどの皆様のお話でも学問や文芸が貴国に於いてもいかに盛んであるかわかります」

 私はお聴きしていて胸が熱くなるのを覚えました。

「それでじゃ、この史文徳を此方に招いたのはこのわしじゃ」

これはまた意外な事を成清が言い始めました。

「もう四年前になるかの、わしが宇佐神宮に参った折にな、宋船がようけ来る博多の賑わいをついでに見物しようと行ったのじゃが、そこで史文徳と初めて知りあったのじゃ。博多の市場を冷やかして歩いておると何やら良い匂いがしての。それは小さな店でな、彼が調理していたのだ。料亭とやら、初めて見た。酒や食事を供するだけの店じゃ。そこでは中国人の船員やら現地で商いしている中国人がわずかな席に座るのに並んでおった。史文徳は店主兼調理人で、一人の給仕とやらがおったな。

 わしは好奇心が強い、食い物は尚更じゃ。わはは。何とも独特な匂いにつられて、やっと席に座ると、若い給仕とやらが来て何か言うのだが、さっぱり分からん。どうも何を注文するのか尋ねているようじゃったので、つい、首を縦に振って、良い!と言ったら出てきたのが鯉丸ごと。いや、姿は鯉だが、どう食べて良いやら。焼魚は食べていたが、焼魚ではない。気味悪くなって給仕に訊きたいのだが全く通じない。で、そんなわしを奥から眺めていた史文徳が出て来て、これは油で揚げた料理です、宋では人気。箸でほぐして食べて下さい、と言うではないか。日本語を使えるのか?わしは喜んで史に教えられたようにして恐るおそる食べたが、これが美味い!彼は大きな身体で喜んで、日本人が来てくれる事は殆ど無い、また来てください!と言ってくれた。わしはそれから宇佐神宮に参った折には必ず史の店に寄ることにした。なに、文字通り味をしめたからな。あはは。しかし、清盛公が大輪田の泊を改修なされて、福原がこれからの貿易の中心になると聞いて居ったので、史に福原に来るよう勧めたのじゃ。福原にもツテはおるからな。」

「成清様には大変感謝しております。おかげ様で泊近くに店を出すことができました。また、宋の船乗りや商人だけでなく当地の方々にもお出でいただいております」

成清が……そのような事を……私は嬉しくなりました。







写真 吉野水分神社西行像(江戸期)