pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

竹取幻想34





「しかし・・・なんだな・・・袁忠・・・お主・・・ただの料理人ではないな・・・」

 康忠様が盃を飲み干しながらそう語り掛け時、座が一瞬静まりました。

兼綱様は直垂の襟を正しながら袁忠さんを見詰めますが、お顔は微笑んでいらっしゃるようにも見えます。

「のう、袁忠、わしはそなたを詰問しているのではないぞ。そなたの挙措やら詩への愛着・・・」

 そう康忠様が話しかけたとき、袁忠さんは幾分顔をこわばらせながらも居ずまいを正し平伏しお答えなさいました。

「失礼しました。康忠様が仰る通り、昔、私はもとは開封という都、北宋と呼ばれていたころの都の太学生でした」

「そうであったか。申したであろう、わしは詰問しておるのではない。話を訊きたいだけなのじゃ。座って話してくれ」 

 康忠様が盃を袁忠さんに回します。皆様も再び寛がれてお酒を酌み交わし座はすぐ賑やかに戻ってきました。皆様は袁忠さんの身の上話に興味津々となられていらっしゃいます。もちろん私も。

「かねてより宋国には国立の太学があって学生は諸々の学問を修学していると聞く。若い優れた者を広く集めて国を支える人材として育てていたとか。万世のために太平をひらく・・・どなたかの言葉であったのう。国を治める理想だな。」

兼綱様がお尋ねになります。

「道学をお開きになった張載様のお言葉と聞いております。」
と袁忠さんはお答えになります。


「おお、そうじゃった。それから、先憂後楽、すなわち、天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみにおくれて楽しむ。これは范 仲淹殿の『岳陽楼記』の文言じゃったな。いや見事なる名文。統治者の心構え、素晴らしい。こうあって欲しいものよのう」
そう兼綱様が仰ると渡辺競様も相槌を打ちながらお話に加わりお尋ねになります。

「袁忠、その太学生だったお主がどうして」

「はい、当時、隣国の金が盛んに我が国を侵略しておりました。我が国宋は文治主義を取っており、最小限の干戈を交えながら、交渉による和睦を外交の基本としておりました。しかし、あの時は酷かった…」

「あの時とは、靖康の変か。確か四十七年前頃であったな。」
兼綱様が仰います。


「よくお見通しの事です。その靖康の変で首都防衛に獅子奮迅の働きをした兵部侍郎李綱様が宰相官僚によって裏切られたのです。彼は罷免されました。役人たちの保身のためにです。私たち開封太学生は一斉に、国を滅ぼす官僚どもの愚挙を糾弾するために立ち上がりました。城内の士大夫、兵卒や庶民まで加わり六〇万人以上の抗議行進を連日行いました。その結果はご存じのように李綱様は欽宗陛下によって後に宰相に任命されたのでございます。しかし、我々太学生たちを率いた者には官僚たちの憎悪が直ぐさま弾圧となって、いや、表向きは慰労褒賞でしたが、そのまま闇に葬られて行ったのです。数人ずつ宮廷内に呼び出され慰労の酒宴…その後に彼らは戻って参りませんでした。宮廷内での連日のもてなしであると役人たちは説明しましたが、内部通報によって嘘が判明し、我々残る六名は直ぐさま逃亡しました。

 最早故郷に戻る事は出来ず、食うや食わずの乞食の旅でした。遥か南の江南の地を目指し、路に荷役の日雇いとなり、農家の手伝いをなし、運河補修の労働者となり、互いに助け合いながら我々は翌春に江南の地に入りました。杭州で我々は別れました。

 三名は僧侶と成るべく黄山他の寺へ、二名は名を変えて講師として各地の義塾へ、そして私は杭州の料理店に見習いとして身を隠しました。ところが、建炎三年、すなわち、逃亡して三年後に再び金に侵略を受けた政府はこの杭州に臨安府を立てて移動してきたのです。

 私は明州に逃れ再び名を変えて料理店に入りました。そこで料理人の修業しながら故郷への道を選ぶかまた新たな道を選ぶか…しかし、その地で暮らすうちに、世界に繋がる明港を見るうちに海外へ出たいとの願望が強くなって行きました。ああ、申し遅れました。私の正しい名は、史文徳と申します。それは今から二十年ほど前の事です。料理人としてようやく認められ、給料も貰えるようになっていました。もう追手も大丈夫。おカネを貯めて日本に渡ろう、そう考えるようになったのです。」

 

 

 





写真 吉野