pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

「堀辰雄を語る会」(旧堀辰雄文学記念館講演会)

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この講演会は一年前に行われた後、今年の春も夏も直前で延期されていた。コロナ余波である。私にとってはこの講演会はどうしても参加したいものであっただけに残念であったが、今回ようやく開催の葉書をいただき申し込んだ。応募者は全国から来たらしいが、私は応募受付開始時間に申し込みOkだった。コロナのため席数を20席に絞り込んだらしい。また、例年文学記念館近くの追分公民館(立原道造と縁のある建築家設計)で実施されていたが、やはりコロナの余波であろう、公民館は使えずとなった。席数を20席に絞り込んだ理由である。


10月30日午後1時半開始。
講師 文化学園大学造形学部准教授 種田元晴
演題 立原道造の建築と堀辰雄


立原道造は詩人として知られているが帝大建築学科卒であり仕事は建築なのだ。24歳という余りに短い人生のなかで建築の業績を果たすのは難しい。しかし彼がどんな建築士としての顔を持っていたか、それと詩作との関係はどうなのかという朧げな疑問の答えを今回の講演で垣間見ることができた。しかも堀辰雄との関係性まで。


種田先生の要旨は御著作『立原道造の夢見た建築』に依る。

第一章 出会った建築、見た風景
第二章 透視図が語るもの
第三章 心のなかの山
第四章 都市から田園へ
第五章 想いの結晶・芸術家コロニイ
終章  夢のひとひら


立原道造は子どものころからパステル画が好きだった。美術的感性に恵まれ、それがのちに建築へと、そして詩へといざなったのだろう。堀辰雄は旧制中学時代は将来数学を専攻するだろうと目されていた。すなわち、二人とも理数系の才能を持ちながらしかも同郷同窓生で(府立三中、一高、東大)で立原道造は17歳で堀辰雄との面識を得ていた。堀辰雄が18歳で室生犀星を知ったのと似ている。

第二章 透視図が語るもの

初めて見たのだが驚いた。てっきり建物中心と思っていたら森や林、山の中に小さく建物が描かれていた。彼の設計思想はあくまで自然の中の暮らしだったのだ。つつましく、自然に溶け合いながら愛すべき住まいを志向したのである。それが第三章以下のテーマである。建築学科で一年上の丹下健三が政治社会の中で活躍したのと対照的である。その丹下健三には広島平和記念資料館の設計がある。また、その関わりで見ると世界平和記念聖堂を設計した村野藤吾がいる。帝大と早稲田の建築学科の対称も面白い。この二つは広島が世界に向けてもその平和の精神を強力に発信できる建造物である。さらに、早稲田の今井兼次が碌山美術館を設計し、同じ早稲田の武基雄が信濃の追分公民館を設計したとなると私の好きな世界がほぼ浮かび上がる。武基雄は立原道造の入社した石本設計事務所の同僚であり丹下らとも親しかったのである。

表現はどんなものでも思想である。
文学も建築も同様である。

立原道造は自然に溶け込んだ建築を志向した。武基雄も同様である。その立原道造の透視図の世界がポール・セザンヌに影響を受けているのではないかと種田先生は指摘する。なるほど、セザンヌに傾倒する立原はセザンヌの山を描きたかったのだ。その美のなかに佇む小さな建物を慈しむように描いた。そのセザンヌ堀辰雄の影響である。リルケを学ぶ中でセザンヌに辿り着いたのである。リルケセザンヌを初期に高く評価した文学者であった。

文学と美術と設計が立原の思想の核となったのである。
種田先生の要旨、「第五章 想いの結晶・芸術家コロニイ」はその結晶となるはずだった。立原は堀の山荘の透視図も描いていたようだ。それは写真で残っている堀の山荘の佇まいにそっくりである。

終章  夢のひとひら
なんとも立原道造の世界にふさわしいタイトルである。立原ほど「夢」を深く美しく描いた者はいない。

     夢みたものは    立原道造

   夢みたものは ひとつの幸福
   ねがったものは ひとつの愛
 
   山なみのあちらにも しづかな村がある
   明るい日曜日の 青い空がある

   日傘をさした 田舎の娘が
   着かざって 唄をうたってゐる
   大きなまるい輪をかいて
   田舎の娘らが 踊りををどってゐる
  
   告げてうたってゐるのは
   青い翼の一羽の小鳥
   低い枝で うたってゐる

   夢みたものは ひとつの愛 

種田先生がこの詩を取り上げられたのは一つに未完の立原の建築があり、その設計の豊かさがもし立原の命が長ければ・・・という思いがあっただろうか。もちろん、立原のこの詩へのオマージュでもある。

ロンド、輪舞のイメージを「しずかな村」に描く。私は『美しい村』と読みたい。『美しい村』は立原が堀辰雄と親しくなった年に発表された。その中で「青い鳥」の歌声や日曜の青空、陽の降り注ぐ下に、愛を描く。日曜とは安息日

この詩は昭和13年、立原が亡くなる前年のものだ。迫る死の日々のなかでこのような詩を描いた。あたかも堀辰雄が『風立ちぬ』を描いたように。

立原道造の夢とは「愛」であった。それは建築に於いても同様であった。


種田先生は講演の終わりに立原道造の「あこがれ」の一つである戸隠へのあこがれを指摘した。それを果たせぬままに逝った立原。翌年堀辰雄は戸隠野尻湖へ赴き、『晩夏』を書いたのだが、

「その『晩夏』には立原の北信への憧れを、立原に成り代わって実現させた弔いの意が込められているのではないか」と種田先生は指摘する。なるほど、そのような読み方は気づかなかった。そんな読み方で久しぶりに読み返してみた。

『晩夏』より抜粋

「湖の水がずっと向うまで引いているのをいい事に、私達は渚づたいに宿の方へ帰って往った。
 葭がところどころに群生している外には、私達の邪魔になるようなものは何物もなかった。一箇処、岸の崩れたところがあって、其処に生えていた水楢若木が根こそぎ湖水へ横倒しにされながら、いまだに青い葉を簇がらせていた。私達はその木を避けるために、殆ど水とすれすれのところを歩かなければならなかった。が、その時でさえ、湖の水は私達の足もとで波ひとつ立てず、又、何のにおいさえもさせなかった。それでいて、湖全体が何処か奥深いところで呼吸づいているらしいのが、何か異様に感ぜられた。
「Zweisamkeit! ……」そんな独逸語が本当に何年ぶりかで私の口を衝いて出た。――孤独の淋しさとはちがう、が殆どそれと同種の、いわば差し向いの淋しさと云ったようなもの、そんなものだって此の人生にはあろうじゃあないか?」

この差し向かいの淋しさの差向う相手とは立原ではなかったのか。ようやく堀のこのドイツ語の引用に気づいた。感謝。




種田先生
「戦後70年が過ぎ、都市は完全に飽和した。がむしゃらに年を発展させる時代は、すでに終わった。これからは、もともとそこにあった環境・風景を大切にするような、田園を志向する態度で建築をつくらねばならない。どこか現代と似る80年前の日本を生きた立原道造が、描き遺した透視図、スケッチを通じて、我々にそのように教えてくれている」
種田先生は昭和57年生まれとか。若い先生たちが立原道造堀辰雄を研究なさっている事も嬉しい。


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今回は小諸に二泊した。風邪の治りきらない中での旅行だった。小諸城址は紅葉が始まったばかりだったが、菊花展で見事な菊を観られたのは良かった。小諸のホテルのベッドに寝転んで翌日11月1日は桐生に行こうと決めた。目当ては大川美術館である。ひさひさぶり。私の好きな松本俊介の絵に会いたくなったのである。そういえば松本俊介
も36歳で亡くなっている。宿は適当に検索したら宿坊観音院というのが出てきた。宿坊か・・・面白いかもと物好きで泊まった。一日一組、キッチン食堂露天風呂洗濯機つき寝室は10畳。持て余した。露天風呂は陶製の五右衛門風呂みたいな形でよかった。さて翌日は?福島の裏磐梯である。あの雄大磐梯山の爆裂口と五色沼、ダリの諸橋近代美術館に行った。五色沼は自然探勝路が整備されていて湖沼群を巡り歩いた。どれもが美しい色を湛えて紅葉と相俟って見事だった。
歩いた歩いた・・・計五日で8万歩・・・帰宅時は疲れ切って昨日まで動く気力もなかった。カネもなくなった。体重も5キロ減った。

また当分は行けないだろう。

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『晩夏』堀辰雄
https://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4799_14420.html

 

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