先ほどの今様や祇王の舞いなど思い浮かべながら、花の香る風に包まれながらぼんやり思いを巡らせておりました。
鳥羽に泊まる・・・普段の旅は鳥羽から、その日の内に一気に舟で寺江まで下ると聞いておりました。弟成清が先に着いているので、せっかちな成清には辛いことかもしれませんが、私への労りを強く感じ入るのでした。宿は頼政様別宅でしょう。鳥羽には院はじめ有力な公卿方の別荘が立ち並び、鳥羽離宮の見事さ‥美しさは別格ですが、都より美しい街並みが続きます。
「さて、鳥羽に着きました。先ずは此方でお参りなされませ」
兼綱様の言葉で私は目を覚ましました。
城南宮でまずは旅の安全を祈り申しましょう、そう兼綱様はおっしゃいます。
私の申した方違えとか、忘れていらっしゃると思い込んでおりましたが、そのご配慮をかたじけなく存じた次第です。参拝の後、私ども一行は頼政様別邸に入りました。武門の屋敷らしく、質素な造りですが、松の清らかさが門を飾り、広い内庭には桜がこぼれんばかりに咲き誇っています。
「父、頼政はまつりごと多く、近頃は滅多に此方にはきませぬ。小侍従様にはご挨拶できぬ失礼をお許しくだされと申しておりました。どうぞ、ごゆるりとお寛ぎ下さいませ。御用はなんなりと、ここにおります康忠に仰せ付けください。」
康忠と呼ばれた武士は兼綱様ご家来の一人で、先程の祇王の歌にも顔色を変えず彼女たちをじっと見つめておられました。廊下に控えた康忠と話をしました。康忠は伊豆の生まれとか、父に従って頼政様を頼りに都に参ったとか。訥々な話なれど言葉一つが強い意志を思わせます。先ほどの祇王について話をしました。
「私は鄙の育ちゆえ、今様さえも詳しくは存じません。ただあの歌は心に滲みもうしました。我が母は私が生まれてすぐ亡くなったそうです。その面影も何も残さずに逝った母をふと思い出してしまったのです。母を何一つ知らず如何に思い出そうや・・・今まで正直そう思いながら暮らしておりましたが・・・あの歌を聞いていると、 まことに不思議なことながら母を思い浮かべることができたのです。初めての経験でした。ありがたきことと聴き入っておりました」
澄んだ声が静かに響きます。床に目を落とし伏せたまま、真っ直ぐな背筋がその後に見える桜の木に連なります。ふわりと一陣の風が、康忠の額に落ちた髪を撫でるように過ぎていきます。
音が聞こえます。
幼い頃に聴いた音が。
それは、母が私へ琴の手ほどきをしてくれていた時の音です。
琴からこぼれる音、なつかしい母の声。
心より心に伝ふる花なれば
散りてもかなし花こそあはれ
そんなひととき安らいでいると弟の成清が参りました。背が低く丸顔で眉の垂れ下がった、軽さの漂う声で、
「やあやあ姉様。お久しゅうござります。この度は厳島までご参拝とか、いやあ、大胆というかお元気なことで祝着至極でございますなあ。それをまた今回はご一緒出来るとはまた嬉しい限りでございます。」
弟成清はこの頃石清水八幡宮権別当の職にありました。異母兄で前の別当勝清殿そのご子息権別当慶清殿と不和のまま、時に酷い仕打ちを受 けながら辛い日々を過ごしておりましたが、平時忠様を通し、建春門院平滋子様のお計らいにてようやく権別当職を得て、更には宇佐弥勒寺講師・喜多院院司にまで補せられた のでございます。しかし、成清がたよりと奉り申し上げた建春門院様崩御の後、とくに治承・寿永の乱と呼ばれた激しい変転と波乱の世に職を免ぜられることになります。
苦労の多い弟でした。その出世には成清のあながちなる事もあり、その報いを受けることになります。またいみじき時の流れに、生きる者全てが翻弄されるのも世の常でしたが、成清もまた必死に生きたのでございました。そう、夫亡き後の私の後見のごとき存在でもありました。小柄の凡夫ではありましたが、母、小大進亡き後には陰に陽に私を支えてくれたものです。
写真 石清水八幡宮